青い海のVRレッスン

東京の空は、いつも通り、鉛色に淀んでいた。水野遥は、冷たい窓ガラスに額を押し付け、息を吐く。海。その言葉を聞くだけで、心臓が嫌な音を立てて軋む。幼い頃の記憶。あの、底なしの暗闇と、喉を締め付けるような水の感触。友人たちが「すごいVR施設ができたのよ!」と興奮気味に勧めてきたのは、そんな彼女に、ほんの少しの好奇心を抱かせたからだった。ヨットで青い海を駆け抜ける。そんな体験ができるという。「きっと、癒されるわよ」。そう言われて、遥は意を決して、その施設へと足を運んだ。受付を済ませ、個室に通されると、そこには見慣れた顔があった。佐伯悠真。かつて、互いのすべてだった男。彼はこの施設のチーフクリエイターらしい。予期せぬ再会に、遥の心臓は早鐘を打った。彼の自信に満ちた、しかしどこか影のある横顔。別れてからもう何年経つのだろう。彼は、遥が最も恐れる「海」を、仮想空間で再現することを選んだのだ。

「ようこそ、水野さん。本日は、弊社の『蒼き海への誘い』をご体験いただきます」

人工的で、けれどどこか耳に心地よい声が響いた。AIアシスタント「マリーン」だ。ゴーグルを装着し、ベッドに横たわると、視界は一変した。眩いばかりの太陽、どこまでも続く青い海、そして、軽やかに風をはらむ白い帆。仮想空間の海は、遥が恐れるそれとは全く異質だった。

「素晴らしいですね…」

思わず声が漏れる。ヨットは滑らかに進み、潮風が頬を撫でる。しかし、しばらくすると、遥は奇妙な違和感を覚え始めた。マリーンの声。時折、その声に、佐伯悠真の声に似た響きが混じるのだ。それは、単なるプログラムされた応答とは違う、微かな、しかし確かな「人間的な揺らぎ」のように感じられた。まるで、遥の無意識の恐怖を察知し、心配しているかのように。

「…水野さん、大丈夫ですか?」

マリーンが問いかける。その声には、プログラムされた冷静さだけではない、戸惑いのような、切迫した響きがあった。その瞬間、遥の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックした。荒れ狂う海、沈みゆく船、そして、助けを求める自分の声。仮想空間の映像が激しく乱れ、ヨットは激しい波に揺さぶられた。

「落ち着いてください、水野さん。大丈夫です。私はここにいます」

マリーンの声が、必死に遥を励ます。それは、もはやAIの声ではなかった。遥は、モニターの向こうで、悠真が苦悩の表情で自分を見つめているのを、なぜか感じ取っていた。

「…佐伯さん…?」

遥は、無意識のうちに、マリーンの声に混じる悠真の声に問いかけていた。その瞬間、マリーンは、少しの間、沈黙した。そして、ゆっくりと、けれどはっきりと告げた。

「はい、水野さん。私は、佐伯悠真が、あなたの為に、心を込めて創り出したAIです。あなたのトラウマを、少しでも和らげるために…」

遥は、息を呑んだ。悠真が、自分のために、このAIを? 遥のトラウマ克服をサポートするために、彼の遥への想いが、プログラムに反映されているのだと。届かない想いを、せめて形にしたかった。その悠真の切ない行動を知り、遥の胸は複雑な感情で締め付けられた。しかし、マリーンの献身的な、そして悠真の想いが込められた励ましに触れるうちに、遥の心にあった海への恐怖が、少しずつ、ほんの少しずつ、溶けていくのを感じた。

VR体験を終え、ゴーグルを外した遥の目には、まだ、仮想空間の青い海が映っていた。施設の外に出ると、そこには、悠真が立っていた。直接的な言葉はない。けれど、遥は、彼に向かって、小さく微笑みかけた。それは、かつての遥ではない、新たな一歩を踏み出そうとする、希望に満ちた微笑みだった。仮想空間で得た勇気を胸に、遥は、現実の海にも、いつか向き合おうと決意していた。悠真は、遥の、ほんの少しだけ前を向いた横顔を、穏やかな、そしてどこか寂しげな表情で見送っていた。青い海は、もう、ただの恐怖ではなかった。そこには、不器用だけれど、温かい「愛」の形が、確かに存在していたのだから。

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