駐輪場の影
毎日のように、佐藤健一は近所のスーパーで買い物を済ませ、屋上駐輪場に停めた愛用の自転車で帰路につく。夕暮れ時、茜色に染まる空を見上げながら、彼は束の間の安堵に包まれる。特に、日々の売上目標達成という重圧に喘ぐ彼にとって、この静寂に包まれた空間は、唯一心を解き放てる聖域だった。車やバイクの喧騒とは無縁の、ただ静かに息を整えるだけの、ささやかな「安心」できる場所。それが、佐藤にとっての屋上駐輪場だった。
しかし、そのささやかな安息は、ある日突然、静かに侵食され始めた。いつものように自転車に跨ろうとした佐藤の目に、駐輪場の隅に立つ人影が映った。フードを目深に被っており、顔の表情は伺えない。何をしているのか、なぜそこにいるのか。男は佐藤に一切関わろうとしない。ただ、そこに「いる」だけ。翌日も、またその翌日も、男は同じ場所に立っていた。佐藤に挨拶をすることも、視線を合わせることもない。ただ、静かに、そこに。「あの男、一体何なんだ…」佐藤の心に、無視できない小さな不安の種が蒔かれた。それは、売上目標のプレッシャーとはまた違う、得体の知れない種類の重圧だった。
男の存在が日常と化すにつれ、佐藤は駐輪場での「安心」を完全に失ってしまった。自転車に跨る瞬間、背後から見られているような気がしてならない。男が自分を見ているのか、それともただぼんやりと景色を眺めているだけなのか。考えれば考えるほど、その輪郭は曖昧になり、佐藤の想像力は急速に膨張していく。男は何者なのか。自分に何をするつもりなのか。このままでは、スーパーの売上目標のことも、頭からすっぽり抜け落ちてしまいそうだ。いや、むしろ、男の存在が、売上目標達成へのプレッシャーをさらに増幅させているのかもしれない。見えない誰かに見られているという意識は、佐藤の心を蝕んでいった。
ある晩、佐藤は意を決した。このままでは精神がおかしくなってしまう。男に話しかけ、その正体を確かめよう。意を決して男に近づいた、その瞬間。男は、まるで佐藤の意図を察したかのように、静かに身じろぎし、そして、音もなく立ち去った。佐藤は、拍子抜けしたような、しかし安堵したような、複雑な気持ちで男がいた場所を見た。すると、地面に小さな紙片が落ちているのが見えた。拾い上げてみると、そこには、走り書きのような文字でこう書かれていた。「あなたの自転車、いつも綺麗に停められていますね」。監視されていたのか。それとも、単なる偶然の出来事だったのか。佐藤は、確信が持てないまま、さらなる不安に駆られた。
翌日から、男の姿は駐輪場から消えた。しかし、佐藤の心から不安が消えることはなかった。男がいなくなったことで、彼は本来取り戻すべき「安心」を手に入れたはずなのに。代わりに、男に「監視されていた」という事実、そしてその目的の不明瞭さが、彼の日常のあらゆる瞬間に影を落とすようになった。スーパーの売上報告書に目を落とすとき、自転車を駐輪場に停めるとき。無意識のうちに周囲を見回し、誰かの視線を感じないか確かめてしまう。店員との些細な会話にも、過剰に反応してしまう。本当に日常は元に戻ったのだろうか。それとも、あの男のいない「日常」こそが、最も恐ろしい状態なのではないか。見えない監視が消え去った今、佐藤の心には、その不在こそが、永遠に消えることのない、最も深い恐怖となって、静かに、しかし確実に、重くのしかかり続けていた。