最後のたこ焼き
「ただいま」。
健一は、自分が誰なのか思い出せないまま、見慣れないはずのたこ焼き屋の暖簾をくぐった。店主のおばあさんは、なぜか「おかえり」と微笑む。ソースの焦げる匂い、ジュージューという音。健一の胸に、言葉にできない懐かしさがこみ上げた。それは、亡くなったはずの祖母の家の匂いにも似ていた。
「あんた、昔はよくここで晩飯食ってたもんだ」。
おばあさんの言葉に、健一は首を傾げる。記憶は白紙だ。おばあさんは、健一が「事故で記憶を全部なくした」とだけ告げ、彼の過去について断片的な話を始めた。健一は、断片的な情報に不安と焦りを感じながらも、おばあさんの優しさに触れ、店に通い続けた。時折、口をついて出る「ソース、多め」という言葉に、自分でも驚いた。
ある日、店で古い新聞記事の切り抜きを見つけた。見出しは「悲劇の暴走事故、若き運転手死亡か」。記事には、事故の原因が「原因不明のシステム暴走を起こした自動運転車」とあり、その車の所有者名が「健一」と記されていた。事故は、記憶を失う原因となったものらしい。彼は、自分が事故を起こした犯人かもしれない、という可能性に苦悩し始めた。それは、単なる事故ではなく、何か意図的なものだったのか?
健一は、おばあさんに新聞記事のことを問い詰める。おばあさんは、涙ながらに真実を語り始めた。
「健一、あなたは事故を起こしたのでも、記憶をなくしたのでもないんだよ」
おばあさんの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あなたは、記憶のバグに苦しんでおられた。自分のアイデンティティさえ、失いかけておられたんだ。それを心配した私は、あなたの記憶の断片を、一時的に消去し、あなたを『健一』として、新たなアイデンティティで生き直させるための『リセット』を行ったのだよ」
おばあさんは、健一の手をそっと握った。
「そして、この『たこ焼き屋』は、健一が記憶の迷宮に迷い込むたびに、あなたを『現在』に繋ぎ止めるための『アンカー』だったんだ。私が、あなたの記憶の『管理者』だったんだよ」
健一は、自分が記憶の迷宮を彷徨う旅人であり、おばあさんが自分を「現在」に繋ぎ止めてくれていたことを知る。過去の罪悪感や苦しみは消えないが、おばあさんの愛情と、このたこ焼きの温かさに触れ、彼は前を向く決意をする。
「また、あんたの好きなように、ここから始めればいいんだよ」
おばあさんは、そう言って、最後のたこ焼きを健一に渡した。健一は、そのたこ焼きを噛みしめながら、失われた記憶の断片が、まるでパズルのピースのように、未来へと繋がっていく感覚を静かに受け入れるのだった。
ソースの甘酸っぱさと、生地の香ばしさ。そして、おばあさんの温かい手が、健一の未来をそっと包み込んでいた。