震える怪談とバイク野郎
雨は、窓ガラスを叩く度に、佐藤の心臓を叩いた。バイクに乗れない日特有の、あの鈍く重い不機嫌さが全身を支配している。古びた喫茶店「レトロ」のカウンター席で、佐藤は湯気の立つコーヒーを、まるで苦い薬のように啜っていた。「で、その話なんだけどさ…」隣から、田中がニヤニヤしながら声をかけてきた。その顔は、佐藤をからかう獲物を見つけた獣のようだ。
「なんだよ、そのニヤつきは」佐藤は顔を上げずに応じる。声に苛立ちが滲んでいた。
「いやー、佐藤君ってさ、怪談話とか怖がるじゃん? で、俺、最近聞いたとびっきりのやつがあってさ。深夜、誰もいない一本道をバイクで走ってたらさ、後ろから『一緒に走ろう』って囁かれたんだって!」
田中は、まるで自分が体験したかのように身振り手振りを交えて語る。佐藤は、そのシチュエーションに思わずゾッとした。深夜、バイク、囁き声。それは、小心者の佐藤が最も恐れる、まさに自分に起こりそうな怪談だった。雨の日の不機嫌さは、怪談への恐怖と混ざり合い、さらに佐藤を不機嫌にさせた。
「…で、それがどうしたんだよ」佐藤は、声が上ずるのを必死で抑えようとした。
「それがさ、その声が、なんとかなんとか…」
田中が怪談の核心に触れようとした、まさにその時だった。
ドンッ!
突然、店全体が激しく揺れ始めた。食器が棚から落ち、床に散乱する。客たちの悲鳴が店内に響き渡る。地震だ!
「うわあああ!なんだこれ!?」
「地震だ!逃げろ!」
パニックに陥る客たち。佐藤は、恐怖で体が竦んだ。怪談の囁き声と、地震の轟音。二重の恐怖が彼を襲う。必死で握りしめたのは、ジャケットのポケットに入った、愛車のバイクのキーだった。
「ほら!言っただろ!佐藤君が怪談話聞いてるからだ!怪談のせいに決まってるって!」田中は、パニックの渦中にも関わらず、さらに騒ぎ立てる。
そんな喧騒の中、マスターだけは異様なほど冷静だった。彼は、カウンターに並べられたコーヒーカップを、一つ一つ丁寧に、静かに、元の位置に戻している。そして、ボソリと呟いた。
「この揺れ、豆の挽き方が悪かったかな。」
その言葉の、あまりの場違いさに、佐藤は一瞬、恐怖を忘れた。
揺れがおさまった。店内の惨状とは対照的に、マスターは涼しい顔で、割れたカップの破片を片付けている。佐藤は、ふと、田中の語った怪談の囁き声を思い返していた。「一緒に走ろう」。あの声の周波数、そして、地震のゴーッという音。いや、それだけではない。いつも自分のバイクの後ろ、シートの隙間にこっそり潜り込んでは丸まっている、あの野良猫の鳴き声。「ニャー」という、あの独特の響き。
まさか、あの怪談の囁き声は、単なる怪談ではなく、あの野良猫が、地震を予知して俺に知らせようとしていた、 SOS だったのか?しかも、あいつ、いつも俺のバイクの、あの特定の場所で丸まってるんだよな…。
「…猫かよ!」
佐藤は、思わず叫んでいた。田中の顔が、怪訝なものから、爆笑へと変わる。
「ははは!なんだよ、佐藤君!急にどうしたんだよ!?」
佐藤は、震える手でバイクのキーを握りしめた。心臓はまだドキドキしていたが、それは恐怖からではなく、ある種の感動と、そして、少しばかりの呆れからだった。
「いや、なんでもねえ!俺、ちょっとバイクで様子見てくる!」
佐藤は、足早に店を出て行った。田中の爆笑する声が、背後で響いている。
「結局、怪談じゃなくて猫かよ!しかも、俺のバイクの後ろに隠れてたって、どんだけ図々しいんだ!へへへ!」
マスターは、そんな二人を横目に、静かに微笑んでいた。
「まさか、あの怪談の主犯は、俺のバイクの後ろで丸まってる野良猫だったなんてな。」
佐藤は、愛車のエンジンをかけた。雨は、いつの間にか止んでいた。バイクのシートの隙間を覗き込むと、そこには、いつも通りの、あの野良猫が丸まっていた。まるで、何事もなかったかのように。佐藤は、猫に向かって、小さく手を振った。猫は、小さく「ニャー」と鳴いた。それは、まるで「おかえり」とでも言っているかのようだった。震える怪談と、バイク野郎。そして、その影に潜む、図々しくも愛おしい、小さな相棒。日常は、かくも滑稽で、そして、温かいのだ。