火山の恩返し

古い障子戸を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。天井には立派な格天井、壁には墨痕鮮やかな掛け軸。ごく普通の、しかし手入れの行き届いた和室。俺、田中一郎は、そんな自宅の一室で、隣に住む佐藤花子さんからの奇妙な相談を受けていた。彼女の家といえば、数年前に見事に建て直されたばかりの豪邸だ。庭も手入れが行き届き、まるで絵画のようだった。そんな花子さんが、なぜわざわざ築年数の古い俺の家へ相談に来たのか。その理由は、彼女の家の庭の片隅にある、古びた離れの和室にあった。

「それで、一郎さん。あの、庭の隅にある古い離れなんですが、どうも様子がおかしいんです」

花子さんは、上品な口元を少しだけ歪ませて言った。彼女の家の敷地内にある、数年前に建て直された本宅ではなく、庭の奥にひっそりと佇む、古い離れの和室。そこだけが、どうにも調子がおかしいというのだ。

「調子がおかしい、とは?」

俺は、出されたお茶を一口すすりながら尋ねた。気弱な俺に、彼女は少しだけ苛立った様子で続けた。

「冬なのに、なぜか暖かいんです。それも、妙に。まるで、誰かがずっと火を焚いているかのように。それに、最近、庭の隅の地面が、少し温かい気がするんです」

冬なのに暖かい離れの和室。庭の地面が温かい。普段なら、そんな話に興味を持つこともないだろう。しかし、俺には少しだけ、引っかかるものがあった。それは、数日前にテレビのニュースで見た、近郊の休火山に関する情報だった。微弱な地熱活動が観測されている、というものだ。まさか、そんな馬鹿な。あの火山は、うちの街からそうとう離れている。地下水脈を通じて、そんな遠くまで熱が伝わるはずがない。そう思いながらも、花子さんの言葉が頭の片隅にこびりついた。

数日後、気になって仕方がなかった俺は、花子さんの家に伺うことにした。豪邸の庭を抜けると、そこには確かに、古びた離れの和室があった。本宅の華やかさとは対照的に、ひっそりと佇んでいる。戸を開けると、やはり、そこだけ空気が違う。ほんのりと、温かい。まるで、春の陽だまりにいるような心地よさだ。

「ほら、やっぱり暖かいでしょう?」

花子さんが得意げに言った。俺は、床下にもぐり、壁の断熱材などを確認したが、特別な暖房設備らしきものは見当たらない。薪ストーブの跡もない。暖房器具は、古い電気ストーブが一つあるだけだ。しかし、それは稼働していない。

その時、俺は天井裏から、微かに「ボコボコ」という水が煮えるような音を聞いた。まるで、地中から湧き上がるような音。思わず、俺は顔を上げた。この音は何だろう?

一方、街では、富裕層が住む山の手と、そうでない地域との間に、インフラ格差が深刻化していた。水道、ガス、インターネット。古い地域では、設備が老朽化し、十分なサービスが受けられない。そんな状況の中、花子さんの家の庭を注意深く見ると、離れの近くに、不自然に埋められたパイプがあることに気がついた。そのパイプは、地面の温かさと関係があるのだろうか。

「教授、この音は何だと思いますか?」

俺は、地質学者の山田教授に連絡を取った。教授は、火山の専門家として有名で、普段から親しくさせてもらっている人物だ。

「ボコボコ、ですか。なるほど、それは興味深い」

教授は、俺の話を熱心に聞き、数日後、花子さんの家を訪れた。教授は、持参した専門的な機器を使い、庭の地面や離れの和室の床下を丹念に調査した。そして、驚くべき事実を発見したのだ。

「田中さん、これは単なる地熱ではありません。これは、火山活動によって温められた、特殊な地熱源です。しかも、この熱を、意図的にこの和室へと導くための、巧妙な地下水脈の操作が行われています」

教授は、花子さんの家族が、この地熱源を管理していることを突き止めた。なぜ、彼らがそんなことを?

「この暖かさ、実は…」

花子さんが、少し照れたように言った。彼女は、街のインフラ整備から取り残された地域への支援として、この地熱を無償で提供していたのだという。そして、彼女の家の離れの和室が暖かかったのは、その支援の「実験」であり、その成果を街全体に還元する準備が進んでいる、というのだ。

つまり、花子さんの家族は、街の格差問題に対して、静かに、しかし確かな方法で取り組み始めていた。裕福な家庭が、その富と知恵を、見えない形で街全体に還元しようとしていたのだ。俺は、その巧妙な仕掛けに、思わず膝を打った。なるほど、そういうことだったのか。火山の恩返しは、こんなにも静かに、そして温かく、街を包み込もうとしていたのだ。

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