日没ロフトの偏光プリズム
西日は、時間を殺菌する鋭利な光線だと思う。築年数すら定かではないアパートのロフト、その台形の窓から差し込む光は、舞い踊る埃のひとつひとつを焼き尽くすように照らし出していた。埃とはつまり、時間の死骸だ。私はここで、午後と夜の縫い目が解けるのを待っている。
インターホンが鳴ったのは、影がもっとも長く伸びる時刻だった。ドアを開けると、そこには制服を着た何かが立っていた。帽子を目深に被り、顔のパーツはまるで水彩画を雨ざらしにしたように滲んでいる。配達員は事務的な手つきで私に荷物を渡し、受領印を求めると、段ボール箱が擦れ合うような声で「よい、黄昏を」とだけ残して消えた。廊下には、彼の影だけがしばらくへばりついていた気がする。
部屋に戻り、私は箱を開封した。注文した覚えは曖昧だが、宛名は確かに私だ。商品名は「意味のスペクトル分解セット」。中には、歪な多面体のガラスプリズムと、「日没の原液」とラベルが貼られた小瓶が一つ、転がっていた。琥珀色の液体は、瓶を傾けると蜂蜜よりも重く、記憶よりもゆっくりと流動する。
「本品は視覚ではなく、概念の屈折率を変更します」
説明書の文言に、私は口角を上げた。物理法則よりも辞書の定義を信奉する私にとって、それは魅力的な誘い文句だった。世界は堅牢な物質でできているのではない。言葉という薄氷の上に、危ういバランスで成り立っているのだ。氷を割るためのハンマーが、このプリズムというわけか。
私は窓辺にプリズムを置き、その尖った頂点に、スポイトで吸い上げた「日没の原液」を一滴、慎重に垂らした。とろりとした液体がガラスの稜線を伝う。その瞬間、世界を繋ぎ止めていた接着剤が、音もなく剥がれ落ちた。
まず、視界の端に転がっていた脱ぎ捨てた靴下が震えた。いいや、震えたのではない。それは「靴下」という定義を剥奪され、ただの「時間の抜け殻」へと変貌したのだ。かつて私の足を包み、歩行という行為を補助していた機能性は蒸発し、そこには半透明で、カサカサと乾いた音を立てる、蝉の抜け殻のような概念だけが残された。それは床の上で頼りなく身をよじり、存在することへの不安を訴えている。
次に、枕元の読みかけの文庫本が形を失った。ページの間から、黒い煙のようなものが立ち昇る。インクではない。それは活字に閉じ込められていた「未完の世界の断片」だった。物語は結末という重石を失い、霧散して部屋中を漂い始める。私の部屋はもはや四畳半のロフトではない。定義の枷(かせ)を外された空間は、「成層圏に近い浮島」へと書き換わっていた。
キーン、と鼓膜が悲鳴を上げる。気圧が急激に下がっているのだ。呼吸をするたびに、肺が薄い酸素を探して喘ぐ。しかし、苦しくはない。むしろ、重力という名の執拗な求愛から解放されたような、浮遊感が心地よかった。
窓の外から射し込む強烈な西日が、プリズムを貫通した。その時、光が変質した。直進するはずの光線が、プリズムの中で屈折し、液状化して溢れ出したのだ。それは光ではなく、溶けたオレンジ色の水飴のようだった。
「ああ、日没が溶けていく」
私は呟いたつもりだったが、声は音波にならず、色のついた泡となって口からこぼれ落ちた。部屋はまたたく間に、粘度を増した夕暮れの海へと沈んでいく。重力は完全に溶融し、私は琥珀色の流体の中を漂っていた。
ふと見ると、私の周りを魚たちが泳いでいる。鱗の一枚一枚が、かつて私が飲み込んだ「後悔」でできている魚たちだ。きらきらと鈍く光るそれは、とても美しい。背びれには鋭利な「不安」が生えていて、尾びれは「諦め」のようにゆったりと水を掻く。彼らは私を責めるわけでもなく、ただ静かに、私の人生という水槽の中を回遊していた。言葉にならなかった感情たちが、ここでは質量を持って、確かな手触りとして存在している。
私は手を伸ばし、一匹の魚に触れようとした。指先が鱗に触れた瞬間、ひやりとした冷たさと共に、懐かしい痛みが走る。それは甘美な痛みだった。すべてが曖昧で、すべてが流動的なこの世界では、痛みさえもが愛おしい装飾品となる。
「綺麗だね」
泡になった私の言葉を、魚がついばんで消えた。世界は夕暮れの琥珀色に完全に満たされ、時間さえもがその動きを止めて、永遠の微睡みの中へと沈殿していく。
唐突に、スイッチが切れたように暗闇が落ちた。
ドサリ、という鈍い音と共に、私は硬い床に投げ出されていた。肺に流れ込むのは、いつもの埃っぽい空気。重力が、借金取りのように容赦なくのしかかってくる。
日が沈みきったのだ。魔法の時間は終わり、物理法則が主導権を取り戻した。
背中に床の硬さを感じながら、私はしばらく動けずにいた。痛みがある。しかしそれは、先ほどの甘美な痛みとは違う、現実という名の乾燥した痛みだ。
ゆっくりと目を開け、ロフトの天井を見上げる。
そこには、見慣れたクロスの染みも、照明器具もなかった。代わりに広がっていたのは、昨日まで見ていた夜空よりも遥かに遠く、深く、そして見たこともない配列で星々が瞬く、未知の宇宙だった。
手の中を探るが、プリズムはどこにもない。あの琥珀色の小瓶も、跡形もなく消え失せている。
けれど、私は知ってしまった。一度剥がされた定義は、二度と元通りには貼り付かない。私の網膜には、世界のピントが永遠に合わないような、修正不可能な「ズレ」が焼き付いている。
私はその美しいズレを目で追いながら、暗いロフトの底で、静かに笑った。