星降る夜のカレーライス

城下町の片隅にある、古びたカレー屋「星屑亭」。看板の文字はかすれ、暖簾は風に静かに揺れている。女将の佐伯陽子は、磨き込んだカウンターに、もう何度目になるか分からないほど指を滑らせていた。磨けば磨くほど、その奥に沈む自身の影が、より鮮明に映し出されるような気がした。

「陽子さん、今日も早いね」

店のドアが開く音に、陽子は顔を上げた。幼馴染の田中健一だ。近所の喫茶店「月光」のマスターである彼は、いつも陽子を気遣って顔を覗きに来る。その屈託のない笑顔は、この寂れた店には似つかわしくないほど明るかった。

「健一さん。…まぁ、こんなものよ」

陽子は曖昧に微笑み、またカウンターを磨き始めた。健一は、陽子の様子がどこかおかしいことに気づいていた。以前から、陽子はどこか遠くを見つめるような瞳をしていたが、最近はその距離感がさらに増したように思えた。まるで、宇宙の果てを見ているかのように。

「最近、お客さん少ないでしょ? 俺の店もそうだけどさ。まあ、こんな時代だから仕方ないか。でも、陽子さんのカレーは、俺、大好きだよ。なんだか、ホッとするんだ」

健一は、陽子の肩にそっと手を置こうとして、寸前で止めた。陽子の周りには、目に見えない壁があるかのような、そんな気配がした。

「ありがとう」

陽子の声は、いつものように静かだったが、その奥に、微かな寂しさが宿っているように健一には聞こえた。

ある晩のことだった。店が閉まる間際、一人の老人がふらりと入ってきた。歳の頃は七十を過ぎたあたりだろうか。着古したコートを羽織り、その目は星屑のようにきらきらと輝いていた。

「こんばんは。一つ、カレーを頼みたいのですが」

老人の声は、ゆっくりと、しかし芯のある響きを持っていた。陽子は無言で厨房へと向かい、いつものように丁寧にカレーを作り始めた。スパイスの香りが、店内に静かに広がっていく。老人は、カウンターに肘をつき、陽子の手際をじっと見つめていた。

「素晴らしい手つきだ。まるで、星雲を操るかのようだ」

突然の言葉に、陽子は手を止めた。老人は、屈託なく笑う。

「宇宙から来たものだよ。この星の、君たちの作る料理に、飽き飽きしていたところなんだ」

陽子は、怪訝な顔をした。健一なら、きっと面白おかしくからかうだろう。だが、陽子は、この老人の言葉に、妙な現実味を感じていた。

「宇宙から…?」

「そうさ。そして、君のカレーは、実に興味深い。まるで、凍てつくような夜空に、たった一つ、燃えるような星を見つけたような味だ」

老人は、そう言ってカレーを一口食べた。その表情は、まるで幼い子供のように純粋だった。陽子は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

それから、老人は時折、星屑亭に現れるようになった。陽子は、老人が語る宇宙の話に、耳を傾けるようになった。それは、彼女がかつて抱えていた、言葉にならない「孤独」や「疎外感」に、そっと触れるような響きを持っていた。果てしない宇宙の広がりの中で、自分だけが置き去りにされているような感覚。

健一は、陽子の変化に気づいていた。以前にも増して、陽子の瞳は遠くを見つめるようになった。時折、遠い星に呼びかけるような、切ない表情を見せることもあった。

「陽子さん、大丈夫? 何か、心配事でもあるのかい?」

健一は、いつものように心配そうに声をかけた。

「大丈夫よ、健一さん。ただ、少し、遠くの星のことを考えていただけ」

陽子は、そう言って微笑んだ。その笑顔は、どこか儚げで、健一の胸を締め付けた。

ある雨の夜。冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。老人は、いつものように店に現れた。陽子は、カウンターに置かれた老人の皿に、静かにカレーを注いだ。その手は、微かに震えていた。

「あの…」

陽子は、意を決したように口を開いた。

「私、昔…故郷を離れて、ずっと一人でした。誰にも、私のことなんて、分からないって…」

堰き止めていた言葉が、ぽつりぽつりと零れ落ちる。それは、誰にも聞かせることのなかった、孤独な日々の断片だった。老人は、何も言わず、ただ静かに陽子の話を聞いていた。

「君のカレーにはね、君が失くした故郷の空が、そのまま詰まっているんだよ」

老人の言葉は、静かな雨音に溶け込むように響いた。その言葉に、陽子の瞳から、熱いものが溢れそうになった。彼女は、ぐっと唇を噛みしめ、必死に涙をこらえた。

陽子は、老人にカレーを差し出した。老人は、一口食べるなり、目を細めた。その瞳には、陽子の、迷子になった子供のような、切ない瞳が映っていた。そして、静かに微笑んだ。それは、陽子が初めて、自分自身を肯定されたような、温かい微笑みだった。

「美味しい」

老人は、いつにも増して、そのカレーを美味しそうに食べた。

翌日。店を開けても、老人の姿はなかった。窓の外は、嘘のように晴れ渡っていた。健一が顔を出すと、陽子の表情は、昨日までの陰りをどこかに落とし、まるで別人のように澄み切っていた。

「マスター、私、明日から少しだけ、メニューを増やそうと思うんです」

陽子は、いつものように静かだが、確かな意思を持ってそう言った。その声には、迷いのない響きがあった。

「え? メニューを?」

「はい。…季節の野菜カレー、始めようかと」

それは、自分自身の「星」を、誰かに見つけ出してもらうための、小さな、しかし確かな一歩だった。果てしない孤独の宇宙の中で、自分という存在を、誰かに見つけてほしくて。

城下町の夜空には、変わらず星が瞬いている。あの老人が本当に宇宙から来たのか、それともただの風変わりな老人だったのか、それは誰にも分からない。だが、陽子の作るカレーには、確かに「星」の味がする。そして、その味を求めて、また誰かがこの店を訪れるのだろう。陽子は、カウンターの奥で、静かに微笑んだ。その横顔には、ほのかな希望の光が宿っていた。

健一は、そんな陽子の横顔に、ほんの少しの温かい光を見た気がした。それは、きっと、明日を照らす、ささやかな光だった。

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