記憶の断片、自由への鍵

アキラは、指先を滑らせるようにして、クライアントの記憶データを外部ストレージへと転送していた。それは、ガラスケースに収められた昆虫の標本を検分するような作業だった。一つ一つのデータに付随する感情タグを、彼はただ淡々と確認する。作業は機械的で、感情の揺れを排した静謐なリズムを刻む。

「ねぇ、アキラ。このシステム、本当に私たちを縛りつけていると思わない?」

隣のオペレーションブースから、同僚のリナの声が聞こえた。彼女の声には、抑揚の少ないアキラとは対照的に、微かな苛立ちが混じっていた。

「システムは、記憶の確実な保管と管理を目的としています」

アキラは、モニターから目を離さずに答えた。リナの言わんとする「解放」が、どのような形式をとるのか、彼には正確には把握できなかった。彼女が語る「自由」は、システムが定義する管理下からの逸脱を意味するのだろう。

「でも、それは本当の自由じゃない。中央サーバーにバックアップされている限り、私たちの記憶は、いつだって誰かにアクセスされる可能性がある。それは、檻の中の鳥と同じよ」

リナは、そう言いながら、自分のデスクの引き出しに手を伸ばした。その仕草には、システムへの反発が滲んでいた。

アキラは、自身の記憶データにも、微細な乖離が存在することに気づき始めていた。記録された体験内容と、それに付随する感情タグとの間に、説明のつかないずれが生じている。特に、幼少期の記憶データに「達成感」というタグが付与されているにも関わらず、その体験自体は、アキラの記憶の表層には明確に残っていなかった。

ある日、リナはアキラに協力を求めた。

「システムを回避して、記憶データを外部に持ち出す計画があるの。アキラ、手伝ってくれない?」

彼女の目は、システムへの挑戦を物語っていた。アキラは、リナの計画に直接関与する意思はなかったが、自身の記憶データにおける「達成感」タグの異常性を解明したいという、静かな探求心が芽生えていた。彼は、その幼少期の記憶データにアクセスすることを決めた。

マウスカーソルが、幼少期の記憶データを示すアイコンの上で静止する。アキラは、それをクリックした。記録された「達成感」タグの元となる体験が、彼の意識に流れ込んできた。それは、幼い頃、複雑な形状のパズルを完成させた際の、脳内報酬系の活動パターンだった。特定のタスクを完了した時に生じる、微弱な神経伝達物質の放出。そのパターンは、システムによって「有用な達成感」として認識され、外部ストレージへのバックアップ対象として優先されていたのだ。それは、外部からの評価や称賛とは無関係な、純粋なタスク遂行の痕跡だった。

数日後、アキラはリナの姿を作業エリアに見つけることができなかった。彼女のデスクは空になっており、システムログには、彼女の端末から記憶データが外部ストレージにコピーされた記録が残されていた。

リナの行動は、「自由」への一歩なのだろうか。あるいは、それは単なるデータの移動に過ぎないのだろうか。アキラは、その結果を静かに観察していた。彼自身は、あの幼少期の記憶データに付随する「達成感」タグを削除することも、リナのように持ち出すことも選択しなかった。

そのデータは、彼の内側にある。それ以上の干渉は、不要だと判断した。アキラは、窓の外に広がる夜空を見上げた。無数の星が、冷たい光を放っていた。外部からの制約からの解放。内面的な認識の変化。二つの可能性が、そのままの形で、彼の意識の中に静止していた。

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