深夜便、有給休暇の終着駅
「なんだよ、この静けさは!俺の有給初日にして、まさかこんな静寂と戦わなきゃいけないとは!」
田中一郎は、リビングのソファで文句を垂れた。数年ぶりの有給休暇、初日の朝。本来なら、温泉にでも行って羽を伸ばす、なんていう陽気な響きが似合うはずのそれだ。しかし、一郎の辞書に「羽を伸ばす」という言葉は存在しない。いや、存在するのかもしれないが、辞書が古すぎてインクが滲んで読めないだけだ。「俺の有給は、会社への貢献度をMAXにするための、特別な充電期間なんだ!わかるだろ、花子、健太!」
妻の花子は、ため息をつきながらも、どこか楽しそうだ。「あら、一郎さん。せっかくの休暇なんだから、少しはリラックスしたらどうなの?」
息子の健太は、高校の制服を着たまま、新聞に目を落としている。大学生になった今でも、父親の奇行に慣れたのか、全く動じない。「父さん、うるさい。朝から元気だな。」
「元気はいいことだ!だが、この有給、明日には消える!今日一日、俺は家でゴロゴロして、明日の仕事に備える!それが、田中一郎流、究極の有給休暇の過ごし方だ!」
そこへ、花子がにっこり笑って言った。「でもね、一郎さん。あなたのために、とっておきの計画があるのよ。」
「計画?俺のために?まさか、俺を会社に送り出すための、サプライズ送別会か?いや、それは明日だろ!」
「ふふ、違うわ。さあ、支度して。港へ行きましょう。」
一郎は、意味が分からないまま、花子と健太に促されるように、港へと向かった。向かった先には、深夜便のフェリーが停泊している。まさか、日帰りでフェリーに乗るというのか?「おいおい、俺の有給初日をこんな夜更かしに使うなんて、一体どんな悪夢だよ!」
船内は、意外にも賑わっていた。一郎はその場を借りて、持ち前の軽快なトークを炸裂させる。隣に座った初老の男性に、「いやあ、有給なんて無駄!毎日働くのが一番!そう思わないか?俺なんて、この仕事に人生捧げてるんだぜ!」と熱弁を振るい、周囲の乗客を爆笑させた。花子は苦笑い、健太は相変わらず無表情だ。
船は、深夜の海へと滑り出した。一郎は、一人、船室の窓の外を眺めていた。漆黒の闇が広がる。その暗闇の中に、ふと、自分の姿が重なった気がした。数年前、家族のために無理をしすぎた時、目の前が真っ白になり、倒れそうになったあの時の光景。一瞬だった。気のせいか。
「どうしたの?一郎さん。」
花子が、優しく声をかけてきた。「いや、なんか…疲れてるのかな。普段、こんなことないんだけど。」一郎は、曖昧に答えた。健太も、一郎の様子を訝しげに見つめている。
船内アナウンスが響く。「まもなく、〇〇港に到着いたします。皆様、お忘れ物はございませんか?」
港に着いた。花子と健太は、一郎に「ちょっと待ってて」と言い残し、一度船を降りた。一郎は、船室で一人、ぼんやりとしていた。すると、船長がやってきた。「田中さん、こちらへどうぞ。」
「え?俺だけ、船に残るのか?まさか、幽霊船にでも乗せられるのか?」
船長は、一郎の言葉を鼻で笑い、静かに告げた。「田中さん、これは、奥様が旦那様のために、ずっと温めてこられた計画なんですよ。あなたのために、この船を貸し切りにさせていただきました。」
「は…?貸し切り…?」
一郎は、船長に連れられて船の奥へ進む。そこには、見慣れた顔があった。花子と健太だ。そして、テーブルには、一郎の好物である焼き鳥と、冷えたビールが並んでいる。「おかえりなさい、一郎さん。」花子が、涙ぐみながら微笑んだ。
「どういうことだ…?」
「ごめんね、一郎。本当は、ずっと、あなたにゆっくり休んでほしかったの。でも、あなたは、仕事が生きがいだって、いつも言ってたから…。」花子は、声を震わせた。「だから、せめて、この有給休暇くらいは、あなたを休ませたかったの。あなたのために、この船を借りて、こうして、三人だけで過ごす時間を…。」
健太が、不器用に一郎の肩に手を置いた。「父さん、いつもありがとう。たまには、休んでください。父さんのこと、ちゃんと見てますから。」
その瞬間、一郎の堪えきれなくなった感情が、堰を切ったように溢れ出した。家族のために、必死で働いてきた日々。無理をして、倒れそうになった時、いつもそばで支えてくれた花子。そして、言葉は少なかったが、いつも父を気遣ってくれていた健太。それら全てが、一気に押し寄せ、一郎の心を締め付けた。子供のように、嗚咽が漏れ始めた。「う…うわぁぁぁん…!」
窓の外には、夜明け前の静かな海が広がっていた。軽快な冒頭の笑いは、もうどこにもない。そこには、温かい家族の絆と、一郎の、ようやく肩の荷が下りたような、静かで、温かい涙だけがあった。有給休暇とは、会社に貢献するための時間ではなく、家族との絆を深めるための、かけがえのない時間なのだと。一郎は、心からそう思った。そして、涙は、止まらなかった。