腐臭のしない検死

埃っぽい、という言葉が、あの部屋にはあまりにも似つかわしくなかった。

監察医の佐倉悠真は、棟方志保という名の孤独死した女性の自宅アパートのドアを開けながら、そんな感想を抱いた。真面目で几帳面な性格が故に、日常の些細な違和感にも過敏に反応してしまう。だが、この部屋は、その過敏さを呼び覚ますにはあまりにも静かすぎた。

部屋全体に漂うのは、生活の気配が希薄な、冷たい空気。家具は最小限で、埃は積もっているものの、それは「放置」された埃というよりは、最初から「存在しない」かのように、均一に薄く、静かに張り付いているだけだった。まるで、誰かが意図的に生活感を拭い去ったかのような、不自然な清潔さ。

特に、キッチンの異様さは際立っていた。シンクは磨き上げられ、調理器具は綺麗に並べられている。だが、そこからは、食材の匂いも、油の匂いも、ましてや、孤独死した遺体から放たれるはずの腐敗臭すら、微塵も感じられなかった。

「……おかしいな」

思わず漏れた声は、空間に吸い込まれるように消えた。佐倉は、この「無臭」という状態に、理屈では説明できない不快感を覚えていた。それは、不快な匂いよりも、ずっと性質の悪い、視覚に訴えかけない、しかし確かに存在する「異物感」だった。

遺体の検死は、アパートの一室で行われた。棟方志保。痩せ細ってはいるが、顔色は不自然なほど血色が良い。外傷は一切ない。司法解剖の結果、死因は特定できない。しかし、佐倉の指先が、遺体の体内に触れた時、違和感は確信に変わった。

「これは……」

体腔内から採取されたのは、粘液状の、しかし、血液やリンパ液とも異なる、得体の知れない液体だった。ねっとりとして、鈍い光沢を放つ。それは、佐倉がこれまでに経験したことのない、未知の物質だった。

さらに、遺体の右手。その指先が、何かを強く握りしめている。慎重に指を開くと、そこには、微細な金属片が残されていた。

「……なんだ、これは?」

その形状は、一般的な工具や食器のそれとは異なり、どこか装飾的で、古めかしい。材質も不明。佐倉は、その金属片を検体として保管し、キッチンの無臭さに再び意識を向けた。あの、耐え難いほどの「無」の匂いが、脳裏に焼き付いている。

金属片の分析結果は、予想外のものだった。それは、組成不明の未知の合金で、その形状は、古代の装飾品や、儀式に用いられる道具の一部に酷似しているという。佐倉は、さらにアパートのキッチンを徹底的に調べた。そして、シンクの排水溝の奥、手の届かない場所に隠されていた、古びた木箱を発見した。

箱を開けると、鈍い黒曜石のような光沢を放つ、奇妙な形状の「神器」らしきものが収められていた。表面には、複雑な文様が刻まれている。箱を開けた瞬間、微かに、しかし確かに、鼻腔をくすぐった。それは、腐敗臭ではなく、甘く、そして陰鬱な、形容しがたい香りだった。

その匂いは、検死で採取した遺体の粘液から漂う、あの異様な匂いと酷似していた。

「まさか……」

科学的な根拠など、どこにもない。それでも、佐倉の心臓は激しく脈打った。この「神器」が、棟方志保の死に関係しているのではないか。その疑念は、一度芽生えると、急速に佐倉の心を蝕んでいった。

自宅に戻った佐倉は、採取した粘液のサンプルを分析しようとした。しかし、容器の中で、液体は不自然に乾燥し始めていた。粘性は増し、あの甘く陰鬱な匂いだけが、部屋に染み付いていく。それは、まるで、佐倉の精神を侵食していくかのような、執拗な存在感だった。

その夜、佐倉は悪夢を見た。

夢の中で、彼は棟方志保のキッチンに立っていた。シンクからは、あの甘く陰鬱な香りが立ち込め、蛇口からは、粘液状の液体が、まるで生き物のように、ゆっくりと滴り落ちている。それは、床に置かれた黒曜石の「神器」へと、静かに、しかし確実に吸い込まれていく。佐倉は、その光景を、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。

翌朝、汗まみれで目を覚ました佐倉の部屋には、昨夜感じたあの異様な匂いが、微かに、しかし確かに残っていた。

「……もう、ダメだ」

検死で採取した粘液のサンプルを破棄しようと、容器を手に取った佐倉は、その表面に刻まれた、微細な模様に気づいた。

それは、あの「神器」に刻まれていた文様と、寸分違わぬ形状だった。黒曜石のような、鈍い光を放っている。

佐倉は、悟った。自分が、棟方志保の死の、一部になってしまったことを。

キッチンから漂うはずのない、あの甘く陰鬱な香りが、自分の部屋にも、そしておそらく、これから訪れるであろう次の検死現場にも、微かに、しかし確かに、存在し続けるだろう。

彼は、ただ立ち尽くすしかなかった。腐臭のしない、静謐な恐怖が、すぐ隣で息づいていることを感じながら。

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