庭師のシェイクダウン
都市の喧騒は、この庭園の境界線で、まるで水面に落ちたインクのように、静かに滲んで消えていった。アキラは、外界の濁った空気を肺に吸い込むのをやめ、代わりに、潮の香りのする、それでいてどこか金属的な、異質な植物の匂いを吸い込んだ。足元には、見たこともない色彩の苔が絨毯のように広がり、その上を、銀色の毛をした奇妙な昆虫が、音もなく滑るように移動している。ここは、外界から隔絶された、静寂と、奇妙な生命の息吹に満ちた場所だった。アキラは、失われた記憶の断片が、この庭園の風景に宿っているのではないかと、漠然と感じていた。それは、事故の後の、曖昧な感覚だった。
庭園の奥深く、幾重にも絡み合った蔓のトンネルを抜けた先に、古びたスケートボードが、まるで長い間そこに置かれていたかのように、静かに横たわっていた。そのデッキの傷、タイヤの摩耗具合。どれもこれも、アキラの失った記憶の中にあった、あのボードと酷似していた。息を呑み、ボードに手を伸ばしかけた時、背後から穏やかな声が響いた。 「それは、あなたの記憶の一部かもしれませんね」 振り向くと、そこには、皺深い顔をした老齢の女性、ミドリが立っていた。彼女の眼差しは、庭園の植物のように、鋭く、そして静かだった。 「この庭は、訪れた者の記憶を風景に変えてしまうことがあるのです」 ミドリは、ゆっくりと、しかし的確に語った。まるで、風が葉を揺らすように、その言葉はアキラの心に染み込んだ。アキラの胸の奥が、ざわついた。自分の記憶が、この庭に、この草木に、この奇妙な風景に溶け込んでいるのではないか。その考えは、彼に言いようのない不安と、同時に、かすかな期待を抱かせた。
アキラは、そのスケートボードに跨った。かつて、街のコンクリートを駆け巡った時のような、自由な滑りではなかった。ボードが地面に触れるたびに、庭園の風景が、まるで水面に映った影のように、微かに揺らいだ。そして、その揺らぎの中から、失われた記憶の断片が、フラッシュバックのように現れた。
それは、夏の日の、汗と笑い声に満ちた、友人たちとのセッション。互いに技を競い合い、失敗しても、ただ笑い合っていた。あの頃の太陽は、もっと眩しかった気がした。そして、恋人との、別れの言葉。雨に濡れる彼女の横顔。その涙の粒が、庭園の露のように、彼の網膜に焼き付いた。さらには、事故の瞬間。急激な視界の歪み、衝突の衝撃、そして、意識が遠のいていく感覚。
記憶を取り戻そうと、アキラは必死にボードを滑らせた。しかし、庭園の風景は、まるで意思を持っているかのように、その輪郭を掴ませない。掴もうとすればするほど、それは霞み、遠ざかっていった。風が、彼の耳元で囁く。それは、かつての笑い声のようでもあり、悲鳴のようでもあった。
庭園の中央に、ひときわ異様な植物が、静かに揺れていた。その中心からは、微かに、しかし確かに、何かが「シェイク」されているような、独特の振動が伝わってくる。アキラは、その植物の近くで、ついに決定的な記憶の断片に触れた。それは、事故の夜。危険な技に挑戦し、友人を巻き込んでしまった、あの瞬間。そして、その罪悪感から、記憶の扉を自ら、固く閉ざしてしまったこと。
この「シェイク」は、庭園が、彼自身の内面を映し出す、巨大な鏡であったのだ。失われた記憶は、この庭園の風景の中に、静かに、しかし確かに、刻み込まれていた。それは、彼が抱えきれなくなった、重すぎる記憶の残滓だった。
アキラは、スケートボードを、庭園の片隅にそっと置いた。記憶を取り戻したことで、失われた過去との対峙は、静かに終焉を迎えた。彼は、もはや過去に囚われる必要がないと感じていた。庭園の風景は、彼の失われた記憶の全てを、音もなく、静かに抱きしめ、そのままの姿で、悠然と存在し続けている。ミドリは、その様子を、ただ微笑んで見守っていた。アキラは、庭園の静寂と、その風景が持つ圧倒的な存在感だけを胸に、ゆっくりと庭園を後にした。そこには、救いも、絶望もなかった。ただ、世界が、広がり続けるという、圧倒的な事実だけがあった。風景は、何も語らず、ただ、そこにあった。