草原のハンバーグ団地
窓の外は、どこまでも続く草原だった。子供の頃から、健一の目に映るのはいつもこの光景だ。古い団地の一室。静寂だけが、そこにあった。妻の玲子は、キッチンで鼻歌を歌っている。ハンバーグの焼ける匂いが、微かに漂ってきた。玲子は、時々こうして手作りのハンバーグを焼く。食卓には、決まって玲子の自慢の「特製ソース」が並んだ。団地の小さな食料品店で買ったものだ。肉の旨味を、このソースが最大限に引き出す。一口食べれば、誰もが笑顔になる。玲子の、自慢のソース。
「健一、できたわよ!」
玲子の弾む声に、健一は窓から視線を戻した。食卓には、湯気を立てるハンバーグ。そして、いつものソース。二人は、草原を眺めながら、静かに食事を始めた。団地の退屈な日常。それでも、このハンバーグとソースがあれば、玲子の笑顔があれば、それで良かった。
ある日。健一は、ふと窓の外に目をやった。見慣れた草原の端に、見慣れないものが立っている。古びた、小さな看板だった。「注意:立入禁止」。かすかに、そう書かれているように見えた。
「玲子、あれ、なんだろう?」
健一は、看板を指差した。
「え? 何かあった?」
玲子は、ハンバーグを口に運びながら、きょとんとした顔で答えた。気にも留めていない様子だ。健一は、その看板が気になって仕方なかった。そして、食料品店の店主の様子が、少しだけおかしいことにも気づいた。ソースについて尋ねた時、店主は一瞬、顔色を変えたのだ。
「あれは…この土地の恵みから…」
そう言って、店主は視線を逸らした。その言葉に、何かの秘密が隠されているような気がした。
看板の正体を知りたい。健一は、その衝動に駆られた。ある晴れた日、玲子に内緒で、健一は団地の外へ出た。草原を歩く。風が、草の匂いを運んでくる。看板は、思ったよりも古びていた。近づいて、文字をなぞる。かすかに、こう書かれていた。「ここは、かつて……」。
その時、背後から声がした。
「お前たちの『食』は、この大地に根差しているのだよ」
振り向くと、見慣れない老人が立っていた。飄々とした、掴みどころのない老人だった。
「この団地は、巨大な…食料培養槽のようなものだ」
老人は、そう意味深な言葉を漏らした。草原はその一部だと。健一は混乱した。玲子のハンバーグ。食料品店のソース。老人の言葉が、それらと繋がっていくような、奇妙な感覚に襲われた。
納得できない。健一は、管理事務所に忍び込んだ。埃っぽい部屋。古い資料の山。その中に、一枚の記録があった。この団地は、食料危機を乗り越えるために作られた、巨大なバイオドーム実験施設だったという。草原は、特殊な栄養素を生成する人工芝。住人たちは、その栄養素を加工した「ハンバーグ」や「特製ソース」を食べて生活していた。彼らの「日常」は、すべてこの施設によって管理された、シミュレーションだったのだ。看板は、そのシミュレーションの「境界」を示す警告。
真実を知った健一は、玲子に告げようとした。しかし、玲子はハンバーグを頬張りながら、いつものように笑った。
「あら、そうだったの? でも、このハンバーグ、美味しいからいいじゃない!」
玲子の笑顔は、変わらない。健一は、ふと窓の外を見た。草原。しかし、その時、健一は気づいた。玲子だけではない。自分自身も、この「草原」の真実に気づいていなかったのだ。窓の外の草原は、団地の屋上から見下ろす、巨大な映像スクリーンだった。自分たちは、その虚構の中で生きていた。
「お前たちが、この『幸せ』を望む限り、この草原は広がり続けるだろう」
謎の老人が、再び現れた。健一の肩に、そっと手を置く。健一は、玲子の笑顔と、偽りの草原を見つめた。静かに頷くしかなかった。この「団地」こそが、彼にとっての、唯一の現実なのだから。偽りの、しかし、確かな現実が、そこにあった。