錆びた門の親子喧嘩

雨は、まるで慰めるように、しかし容赦なく、錆びついた巨大な門に滴り落ちていた。その赤茶色の雫は、まるで古い傷口から滲み出す血のようで、静謐な山奥の廃墟に不穏な気配を漂わせていた。

「ここが、お祖母様の療養所跡よ」

母、陽子は、穏やかな声でそう言った。その声は、いつも通り、優しさに満ちていた。しかし、その優しさの奥に、私、恵子には、時折、得体の知れない圧力を感じることがあった。

「売却の手続きのために、一度、下見に来たのよ」

そう付け加えた母の言葉は、あまりにもあっさりと、しかし私にはどこか腑に落ちない響きを持っていた。この場所が、私たちの家族にとって、どのような意味を持つのか、母は何も語らなかった。

蔦に覆われ、崩れかけた石壁からは、それでも力強く緑が覗いている。荒れ果てた庭園には、かつて誰かが丹精込めて手入れをしたであろう名残があった。私たちは、母の先導で、廃墟の中を歩き始めた。

「あなた、覚えているかしら? 小さな頃、熱を出して寝込んだ時…」

母は、ある部屋の前で立ち止まった。そこは、私には見覚えのない、しかし母は「お祖母様のお部屋だった」と懐かしそうに語り始めた。

「どれだけ私が献身的に看病したか。あの時、あなたを失うのが怖くて、眠れない夜を過ごしたのよ。あなたは、私しか頼れない子だったから」

母の言葉は、まるで私に罪悪感を植え付けようとしているかのようだった。幼い頃の記憶。断片的に蘇るのは、熱に浮かされ、朦朧とする中で、母が私の額に手を当て、何度も「大丈夫、大丈夫よ」と囁きかけていたこと。そして、その囁きは、私を安心させるというよりは、むしろ私を母の傍に繋ぎ止めておくための、見えない鎖のように感じられた。

「だって、あなたは私にとって、かけがえのない宝物なんだから」

母の言葉に、私は息苦しさを感じた。社会人になり、自立しようと必死にもがいている今、母のその言葉は、私を過去の、無力な子供の頃に引き戻そうとする力を持っていた。

庭園の、かつては美しかったであろう花壇の跡を歩きながら、母はさらに続けた。

「あの頃は、本当に大変だったのよ。でも、あなたのために、私は何もかも犠牲にしたわ。あなたがあんなに病弱だったから…」

その言葉は、私に向けられた感謝の言葉ではなく、母自身の「犠牲」を誇示し、私に恩義を感じさせようとする、巧妙な罠のように響いた。

「もう、いい加減にしてください!」

抑えきれない苛立ちが、私の声となって飛び出した。それは、長年、母の過干渉と、その愛情という名の支配に耐え続けてきた、私の悲鳴だった。

「私を、縛り付けないでください! 私の人生は、母さんのものではない!」

「あなたのためよ! あなたが、またあんな風に苦しまないように…!」

母の声も、次第に熱を帯びていく。幼い頃、熱でうなされていた夜。朦朧とする意識の中で、母が祖母に話しかけていた声が聞こえた。「この子は、私しか頼れないのよ。私がいないと、この子は生きていけないわ」。あの時、私は母の言葉の重みに、ただただ怯えていた。今、その記憶が鮮明に蘇り、私の叫びは、より一層激しさを増した。

「もう、放っておいて!」

激しい親子喧嘩の末、母は、静かに涙を流した。その涙は、悲しみの涙なのか、それとも…。

「わかったわ。あなたの言う通りにするわ」

母は、静かな声でそう告げた。その言葉に、私は一瞬、安堵した。母が、ついに私の気持ちを理解してくれたのだ、と。

「じゃあ、お願いがあるの。あの門を、閉めてきてくれる?」

母は、そう言って私に微笑みかけた。いつもの、穏やかな微笑みだった。私は、母の言葉通り、錆びついた巨大な門へと向かった。重い鉄の塊を、ゆっくりと押し開ける。その開いた隙間から、ふと、母が隠していたらしい、古い日記のようなものが見えた。

そこに記されていたのは、母が私に語っていた、あの頃の悲惨な記憶とは全く異なる、冷たい現実だった。

「この子を、私のそばから離さない。あの療養所は、彼女にとって一番安全な場所になるだろう。彼女は、私がいないと生きていけないのだから…」

私の手は、震え始めた。門を閉めきった瞬間、母の声が、背後から聞こえた。

「これで、あなたはもうどこにも行けないわね」

その言葉の意味を、私はすぐに理解した。母が言っていた「売却」とは、この廃墟に私を閉じ込めることだったのだ。幼い頃、病弱だったという嘘を突き通し、私が自分のもとから離れていくことを恐れて、母はこの「安全な場所」に私を永遠に閉じ込めようとしていた。そして、門を閉める際、私は無意識のうちに、母の「あなたのため」という言葉に、自分自身を閉じ込めるための言い訳を見出していたのだ。母の「愛情」という名の檻に、自分自身が鍵をかけたのだ。母の穏やかな微笑みは、娘を永遠に手元に置くための、冷酷な支配欲の表れだった。外には、もう二度と出られない。雨だれのように、錆が滴り落ちる門の向こうで、私の時間は永遠に止まった。

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