下駄箱に置き去りの驚嘆
午後の陽射しは、古びた蜂蜜のように粘度を増していた。限りなく透明に近い昇降口。そこで僕は、空間のパースペクティブが呼吸をするように歪むのを肌で感じていた。遠近法が仕事放棄をしたせいで、手元のローファーと数メートル先の壁との距離感が、アコーディオンのように伸び縮みしている。
転校初日の緊張という名の重力を振り払うように、僕は下駄箱の扉に手をかけた。その瞬間だった。
「停止してください。貴方のその行為は、校則第8条における『静寂の攪拌』に該当します」
背後から、鉛のように密度の高い声が僕の鼓膜を叩いた。振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。胸元には風紀委員長の腕章。彼女のかけている眼鏡のレンズは、光を反射して白く濁り、その奥にあるはずの瞳を巧妙に隠蔽している。彼女は、まるで数式を黒板に書き付けるような冷徹さで僕を見据えていた。
「えっと、上履きに履き替えようとしただけなんですけど……」
僕は戸惑いを含んだ敬語で返す。まだこの世界の物理法則に未適応な僕は、言葉を辞書通りの意味でしか捉えられていなかった。
「靴の指定の話ではありません」
委員長は、空間から定規を取り出すような手つきで、一枚の生徒手帳を提示した。
「我が校では、校内への危険物、および『驚嘆』の持ち込みが厳しく禁止されています」
「驚嘆?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。鸚鵡返しになったのは、あまりに文脈が破綻していたからだ。
「はい、驚嘆です。定義によれば、それは認識の境界線が一時的に溶解する現象であり、その際に発生する質量は、校舎の構造強度に深刻な悪影響を及ぼします。先ほど貴方は、この歪んだ空間を見て息を呑みましたね? その『あっ』という感嘆こそが、校舎の基礎を揺るがす振動源となるのです」
彼女は真顔だった。冗談を言っている気配は微塵もない。彼女の言葉は、論理的で整然としているが、その前提となる公理が決定的に狂っていた。
「それは……比喩ですよね? 驚きで建物が壊れるなんて」
僕が乾いた笑いを浮かべようとすると、委員長は制服のポケットから、繊細な銀色のピンセットを取り出した。先端が鋭く研ぎ澄まされ、星の光だけを反射するような、冷ややかな輝きを放っている。
「比喩? 貴方はまだ、言葉と実態が乖離しているという古い迷信を信じているのですか。口を開けてください。貴方の喉元に見えています。可燃性の高い、純粋な主観の結晶が」
抗議しようと口を開いた瞬間、彼女の手が蛇のように伸びた。
冷たい金属の感触が、僕の喉の奥、言葉になる前の震えに触れる。痛みはなかった。ただ、大切な記憶を不意に忘却してしまった時のような、あるいは夢から醒めてその内容が指の間から零れ落ちていく時のような、喪失感だけが走り抜けた。
「確保しました」
委員長がピンセットの先で摘まみ上げたものを見て、僕は言葉を失った。
それは、僕の口から引きずり出された「驚嘆」だった。虹色に脈動する、不定形の塊。触れれば指先が凍り付くほど熱く、同時に火傷するほど冷たい。甘ったるい金属臭が鼻をつき、その表面では「ありえない」「まさか」「すごい」といった感情の断片が、行き場を失って明滅している。
「なんと純度の高い……。これほどの質量を持つ主観を持ち込めば、三階の渡り廊下が事象の地平線へ崩落するところでした」
彼女は淡々と処理を進める。僕の「驚嘆」を下駄箱の空きスペース――214番のボックスへと押し込み、重厚な音を立てて扉を閉めた。そして、厳重な南京錠をかける。
ガチャリ。
その音が、僕の中で何かのスイッチを切り替えた。世界の色相が、ほんの少しだけ彩度を落とす。
「これで貴方の認識は安全に平準化されました。感情の起伏は標準偏差の範囲内に収まり、世界は記号として正しく処理されるでしょう。では、教室へ」
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
僕の口から出た声は、驚くほど滑らかで、そして平坦だった。そこには疑問符も、躊躇いも、一切の摩擦が含まれていなかった。
僕は上履きを履き、校舎へと足を踏み入れる。
廊下に出た瞬間、視界に飛び込んできたのは、天井付近を優雅に遊泳する巨大な深海魚の群れだった。リュウグウノツカイが長い鰭をはためかせ、蛍光灯の光を銀色の鱗で弾いている。窓の外では重力が逆転し、雨が空へと降り注いでいた。
そして、二階へと続く階段は完全に液状化し、灰色のリノリウムが巨大な滝となって轟音を立てて流れ落ちている。
以前の僕なら、腰を抜かしていただろう。喉が裂けるほどの悲鳴を上げ、その認識の負荷に耐え切れず、この世界の物理法則を呪ったはずだ。
けれど、今の僕の心は、凪いだ湖面のように静まり返っていた。
「少し、通りにくいですね」
僕は滝のように流れる階段に足を突っ込み、くるぶしまでコンクリートの飛沫に濡れながら、独りごちた。
「けれど、思考の摩擦係数がゼロになったみたいで、悪くない気分です」
異常な光景を前にしても、心が一切波立たない。それは残酷なほどに平穏な「正常」だった。僕は流れに逆らって歩を進める。教室へ行かなければ。授業が始まる。チャイムの音は、きっとクジラの歌声のように聞こえるだろう。
背後の昇降口、214番の下駄箱の奥から、炭酸の泡が弾けるような音がした気がした。
『さようなら』
それは、微かで甲高い、かつて僕の一部だったものの断末魔。
けれどその音は、鼓膜に張り付いたまま意味をなさず、僕はもう二度と振り返ることはなかった。