シロップの海を自動航行するパンケーキと、溶けゆく憧れのレシピ
琥珀色の夕暮れが、都市全体を煮詰めたシロップのように浸していた。巨大なフォークが林立する街路樹の下、私は手を挙げた。タクシーを待っていたのではない。この空虚な風景に、何か意味ありげな句読点を打ちたかっただけだ。
けれど、私の指先に反応して停まったのは、ふかふかの厚みを持った巨大なパンケーキだった。タイヤはなく、焼きたての湯気が重力をあやふやにしている。
「乗車口はこちらです」
どこからともなく聞こえた声に従い、私はポケットからシルバーのナイフを取り出した。ふっくらとした生地の側面に、水平に刃を入れる。サクッという小気味よい音と共に、湯気が顔にかかった。バニラエッセンスの香りが、私の記憶野を甘く麻痺させる。私は切れ込みを広げ、その温かい胎内へと潜り込んだ。
車内は、オーブンの予熱に似た安らぎに満ちていた。座席はなく、スポンジのような弾力が私の体重をすべて受け止める。腰を下ろすと、天井からとろりとした黄金色の液体が垂れてきて、私の胸元と腰を優しく拘束した。
「シートベルト着用、確認。蜂蜜の粘度は正常です」
姿の見えないナビゲーターが告げる。非常に丁寧で、それでいてどこか小麦粉っぽい粉っぽさを感じる声だった。
「どちらまで参りましょうか?」
「ずっと遠くの、あこがれの場所へ」
私は即答した。具体的な地名は忘れてしまったけれど、胸の奥に空いた穴の形だけは覚えている。そこを埋めるための場所だ。
「了解しました」とナビゲーターは事務的に、けれど少し嬉しそうに応じた。「乗客の『憧れ』の純度を計測。……高純度です。これをイースト菌に投与し、生地の膨張率を推力に変換します。発酵、開始」
私の背中や太ももの下で、ポコポコと小さな気泡が生まれては弾ける感触がした。生き物のような振動。パンケーキの車体は、ふわりとアスファルトから浮き上がった。進行方向は道路の先ではない。夕焼け空に浮かぶ、あの巨大なバターの塊の方角だった。
窓の外を流れる景色が、次第にメープルシロップのようにとろりと歪み始めた。ビル群である銀のスプーンやナイフが、飴細工のように引き伸ばされていく。
「順調です。現在、糖度は上昇中」
「ねえ、あそこにはいつ着くの?」
私は空の彼方、黄金に輝くバターを指差した。近づいているはずなのに、その輪郭は蜃気楼のように揺らめいて、距離感が掴めない。
「お客様、それはパラドックスです」
ナビゲーターの声が、少しだけ熱を帯びた。「『憧れ』とは、距離の別名です。到達してしまえば、それはもう憧れではなく『日常』という名の残りカスになってしまう。ですから、貴方が強く願えば願うほど、当機は目的地を遠ざける回避行動を取らざるを得ません」
「そんなのおかしいよ。私はただ、満たされたいだけなのに」
「満たされることと、空腹でいることは、この世界では同義語ですよ」
車内の温度が急激に上がり始めた。私の焦燥感が熱源となっているのだ。甘い香りが濃厚になりすぎて、息をするたびに肺が砂糖漬けになっていくようだ。
「けい、こく……。ねつ、りょうが、じょうしょう、し、すぎて……います……」
ナビゲーターの声がおかしい。先ほどまでの冷徹な響きが消え、キャラメルが糸を引くような、ねっとりとした甘ったるい声色に変わっていく。
「あぁ、そんなに、熱く、想わないで、ください……。わたしの、回路が、キャラメリゼ、されて、しまい、ますぅ……」
車体がガクリと揺れた。私の「行きたい」という想いが重力質量を持ち始め、パンケーキの膨張力を上回ってしまったのだ。私たちは高度を下げ始めた。
「警告、警告ぅ……。このままではぁ、貴方の重たすぎる想いがぁ、『現実』という名の冷たいお皿にぃ、激突しちゃいますぅ……」
眼下には、巨大な白い磁器の皿が、冷酷な輝きを放って待ち構えていた。あそこに落ちれば、私たちは単なる朝食として消費され、消化され、排泄されるだけの運命だ。
「いやだ、現実なんて見たくない! 私はあこがれのまま終わりたいんだ!」
「ならばぁ……方法は、ひとつだけぇ……」
溶けかけのナビゲーターが、私の耳元で甘く囁いた。
「貴方自身がぁ、溶けてぇ、このパンケーキのぉ、一部に、なっちゃえば、いいんですぅ……。そうすればぁ、どこへも行かなくて、いい……」
選択の余地はなかった。冷たい皿の上でナイフとフォークに切り刻まれるくらいなら、この甘美な熱の中で溺れたい。
私は、目的地に「辿り着く」ことを諦めた。その代わり、この場所に「染み込む」ことを選んだ。
その決意をした瞬間、私の指先の輪郭が曖昧になった。皮膚が黄金色の液体へと変わっていく。それは極上の溶かしバターだった。私の血液はメイプルシロップになり、骨は柔らかなスポンジ生地へと還元されていく。
「あぁ……素敵ですぅ……混ざり合ってぇ……美味しい……」
私の意識は、パンケーキの気泡のひとつひとつに拡散していった。もう「私」という個体は存在しない。けれど、かつてないほどの充足感がそこにはあった。
私たちは空を漂う。永遠にどこにも辿り着かないまま、しかし、世界のすべてを甘く包み込みながら。
琥珀色の空に、誰かの「いただきます」という声が、遠く、優しく響いた気がした。