恒星が沈む前に

初夏の朝の光が、古びた木枠の窓から埃っぽい店内に差し込んでいた。佐伯悠馬は、古書店「星影堂」の片隅で、昨夜見た夢を反芻していた。それは、遥か昔、父と二人で夜空を見上げ、星座の物語を語り合った、あの日の記憶。オリオン座の腕を指しながら、父は熱っぽく星々の神話を語った。しかし、夢の終わりには、いつも、あの日の光景が重なる。父が、静かに息を引き取った、あの夜の場面が。悠馬は、そっと、父の遺品である古びた天体望遠鏡に触れた。冷たい金属の感触が、指先からじわりと、過去の重さとなって染み渡ってくるようだった。あの夜以来、悠馬はこの古書店に引きこもり、父の死の真相を、ただひたすらに、しかし決して行動に移すことなく、心の中で抱え続けていた。

そこへ、軽やかな足音が響いた。幼馴染の藤堂詩織だ。彼女は、悠馬の店に現れると、いつも変わらぬ朗らかな笑顔を向ける。「悠馬さん、今日は茶道の稽古に誘いに来ましたよ」。その声は、店の静寂を優しく破る。悠馬は、詩織の眩しいほどの明るさに少し戸惑い、いつものように断ろうとした。だが、彼女のまっすぐで、濁りのない瞳に見つめられると、言葉を失ってしまう。「…行かない」。絞り出した声は、やはり頼りなかった。詩織は、悠馬の言葉に少しだけ眉を寄せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。「仕方ないわね。でも、お茶菓子は用意しておいたの。少しだけでも、顔を見せてくださいな」。悠馬は、詩織の強引さに、抗う気力も失せ、ただ頷くしかなかった。茶室へと向かう道すがら、悠馬の足取りは重い。茶室には、父が愛用していた、釉薬のひび割れた茶碗が飾られていた。詩織は、その茶碗を手に取り、慈しむように撫でながら言った。「この茶碗、お父様が大切にされていたものですよね。また、あの頃のお話を聞かせてください」。その言葉に、悠馬の胸が締め付けられた。父との記憶が、鮮やかに蘇る。茶碗の釉薬に走る無数のひび割れが、父の死の真相の掴めなさと、どこか重なるように思えた。

茶道の稽古は、いつものように静かに進んでいった。しかし、その静寂の中で、詩織は悠馬に、一枚の古い新聞記事をそっと差し出した。それは、父の死を「事故」として片付けようとする世間の動きを、静かに、しかし鋭く批判する記事だった。そして、父の死には、何者かの陰謀が隠されていることを示唆する、かすかな、しかし確かな筆致。悠馬は、記事を握りしめた。指先が震え、記事の文字が滲んで見える。「…これは…」。父の死の真相を隠蔽し、研究を辞めさせたのは、一体誰なのか。そして、自分は、父の厳格さゆえに、その重圧から逃げ出し、この古書店に閉じこもってしまったのではないか。そんな、みじめな自らの弱さが、悠馬の胸を苛んだ。茶室の隅に置かれた、父の書斎から持ち出した遺品箱。その中を漁っていると、一枚の古びたメモが見つかった。父が、暗号めいた文字で何かを書き留めていたのだ。そこには、ある恒星の名前と、不規則な数字の羅列が記されていた。

悠馬は、メモに記された恒星が、父が最後に観測しようとしていた、あの幻の星だと直感した。そして、記された数字は、その恒星の観測データと結びついているのではないか。詩織の助けを借りながら、悠馬は父の遺した研究資料や、古書店で見つけた古い天文学書を紐解き、メモの解読を試みた。その過程で、父が、ある重大な発見をしようとしていたこと、そして、その発見を巡って、学界の権力者との間に、深刻な軋轢があったことが明らかになっていく。父の無念を晴らすため、そして、父の期待に応えられなかった過去の自分と向き合うために、悠馬は、父の遺志を継ぐ決意を固めた。それは、父の偉大さへの、遅すぎた尊敬の念と、自身の弱さへの、静かな決別でもあった。

ある朝、悠馬は詩織と共に、父が最後に観測しようとしていた場所へ向かった。そこは、街の喧騒から遠く離れた、見晴らしの良い丘の上だった。悠馬は、父の遺した望遠鏡を丁寧に組み立て、朝焼けに染まる空を見上げた。恒星は、すでに地平線の下に沈み、その輝きを隠していた。しかし、悠馬の心の中には、父の言葉が、静かに、しかし力強く響いていた。「どんなに暗い夜でも、必ず恒星は輝いている。そして、夜明けは必ず来る」。悠馬は、父の偉大さと、詩織の変わらぬ優しさに触れ、静かに涙を流した。父の死の真相を、完全に解明することはできないかもしれない。しかし、父が守りたかった真実の断片を、そして、自分自身を、これからは見失わないと誓った。茶室の茶碗を手に取った詩織が、悠馬の肩にそっと手を置いた。悠馬は、詩織の目を見て、小さく頷く。二人の間には、言葉にならない、温かい空気が流れていた。悠馬は、古書店に戻り、棚に並ぶ古書にそっと触れた。その手は、もう震えていなかった。彼は、詩織に「新しい仕入れの古書、一緒に見に行かないか」と、不器用に微笑みながら言った。その微笑みは、かつてないほど、穏やかで、力強かった。

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