無重力ワルツ
オリオン・ノード居住区画。無重力空間。リリアは、その空間に身を委ねていた。浮遊する身体は、重力という制約から解放され、滑らかな放物線を描く。指先は微細な軌跡を刻み、脚は空間を蹴って推進力を得る。彼女の動きは、ある種の正確性を帯びていた。それは、訓練された機械の動作にも似て、無駄がなく、目的論的だった。
しかし、その表情には、いかなる感情の波紋も映らない。目元は平坦で、口元は僅かに引き結ばれているのみ。彼女が踊っているという事実だけが、その身体の動きから読み取れる。そこにあるのは、踊りそのものではなく、踊るという行為の、冷徹な再現だった。
ある時、ステーション内に地球から送られてきたデータが配布された。それは、古い新聞記事のデジタルアーカイブだった。紙媒体の質感、インクの匂い、それらはデータ化されてもなお、かつての物理的な存在感を微かに伝えていた。記事には、かつて地上で名を馳せたダンサーたちの写真が掲載されていた。彼らの顔には、汗と、あるいは涙ともつかぬ光沢が浮かび、その表情は、踊りに捧げられた情熱を物語っていた。
リリアはその記事を、壁に設置されたディスプレイで閲覧した。彼女の視線は、文字と画像を追う。そこに、かつて人間が踊りに込めたという「情熱」についての記述があった。彼女はそれを、生物学的な現象、あるいは神経伝達物質の過剰分泌といった、解析可能な事象として認識しているかのようだった。
ダンスの最中、指先が僅かに震えた。それは、プログラムされた動きの誤差か、あるいは、外部からの刺激に対する予期せぬ反応か。人間的な「何か」の兆候が、一瞬、その機械的な精度の中に垣間見えた。しかし、その震えはすぐに収まり、指先は再び、規定された軌道を正確に辿り始めた。まるで、そのような微細な揺らぎは、初めから存在しなかったかのように。
「リリア、応答願います。」
無機質な声が、居住区画に響いた。管制官Aからの通信だった。リリアは、壁に固定された通信パネルに手を伸ばす。その動作にも、一切の躊躇いはなかった。
「こちらリリア。お聞きします。」
「ステーションの定期メンテナンスが予定されています。それに伴い、居住区画の環境設定が一時的に変更されます。無重力状態でのダンス練習が許可される時間は、本日より短縮されます。以上、お伝えします。」
管制官Aの声は、感情の機微を一切排していた。それは、情報伝達という単一の機能に特化した、人工的な音声だった。
「承知しました。」
リリアの返答もまた、同様に平坦だった。そこには、不満も、理解も、あるいは諦めも含まれていない。ただ、受領した情報の確認があったのみ。
管制官Aは、その応答を記録システムに転送しながら、微かに呟いた。その声は、リリアには届かないように調整されていた。
「パターン変化、許容範囲内。特異反応、観測されず。」
アナウンスされた無重力時間の短縮は、リリアのダンスに新たな要素を加えた。彼女の動きは、以前にも増して速くなった。そして、その精度はさらに高まった。まるで、限られた時間内で最大限のパフォーマンスを発揮するように、彼女の身体は最適化されていく。それは、もはや個人的な表現の域を超え、ある種の物理法則に最適化された現象のようだった。
彼女の身体は、空間を切り裂くように移動する。指先は、空気の抵抗を極限まで減らすように制御され、脚は、無駄なエネルギー消費を抑えるように推進力を生み出す。その姿は、プログラムされたアルゴリズムが、物理的な身体を得て実行されているかのようだった。
モニター越しに、管制官Aはその様子を観察していた。彼の顔には、解析に集中する者特有の微かな緊張が見られた。しかし、その分析結果が何であったのか、それがリリアの行動にどう影響するのか、あるいはしないのか。その全ては、外部には開示されなかった。
「無重力時間の終了、5分前。」
アナウンスが、居住区画に静かに響いた。リリアは、そのアナウンスに呼応するかのように、最後の、そして最も精密な回転を終えた。そして、ピタリ、と動きを止めた。
彼女の身体は、壁に設置された、簡素な固定具にゆっくりと身を預けた。床に足をつける必要のない無重力空間では、身体を保持するための装置は、最小限でよかった。彼女の視線は、居住区画の窓の外、漆黒の宇宙空間へと向けられていた。星々の光は、無関心に瞬いている。彼女がその視線の先に何を見ているのか。それは、彼女自身にしか知り得ないことだった。
管制官Aからの追加の指示や質問は、なかった。通信は、静かに、そして唐突に途絶えた。オリオン・ノード居住区画には、再び、重力のない静寂だけが満ちていた。リリアは、静止したまま、宇宙の闇を見つめ続けていた。