春の残響

春の、まだ冷たさの残る夜だった。ユキは、友人であるリョウに誘われて、久しぶりにクラブへと向かっていた。最近、ユキの眠りは浅く、夜毎、奇妙な夢に苛まれていた。夢の中の光景は、いつも決まって、どこか歪んだ、現実とは少しだけ違うクラブの空間だった。流れる音楽は耳障りな不協和音を奏で、そこにいる人々は、生気のない人形のように、ただひたすらに踊り続けている。

クラブの扉をくぐると、むせ返るような熱気と、重低音が身体を揺さぶる。ユキは、胸の奥に鉛のような塊が沈み込むのを感じた。店内のけばけばしい照明、乱雑に飛び交う音楽、そして溢れんばかりの人々の熱気。それら全てが、夢で見た光景と不気味なほどに重なり合っていた。特に、フロアの奥、普段は人影もなく、薄暗く埃っぽい一角。そこへ向けて、ユキの視線は強く引きつけられた。リョウは、そんなユキの様子に気づくこともなく、楽しげに人混みの中へと消えていく。

ユキは、やがてトイレへと向かうため、その薄暗い一角に吸い寄せられるように近づいた。その時、鼻腔をくすぐったのは、甘ったるく、それでいてどこか生臭さを伴う、形容しがたい匂いだった。熟れすぎた果実が腐敗していくような、しかし、鉄のような金属的な匂いも混じっている。誰かが、すぐ耳元で囁いたような気がした。だが、それはきっと気のせいだろう。そう思い直した、その直後だった。足元で、床板がきしむ音がした。誰もいないはずの、ただの空間から。それは、まるで、何かがゆっくりと、しかし確かに、そこに「いた」ことを示しているかのようだった。

クラブを出て、ユキの日常は、さらにゆっくりと、しかし確実に、その輪郭を失い始めた。道端に可憐に咲く春の花が、夢の中で見た、無表情な人々の顔のように見え隠れする。街を走る車のクラクションの音が、あの夜、耳にした不協和音となって響く。眠りにつけば、またあのクラブの夢を見る。今回は、薄暗い一角の奥から、誰かの視線が自分を射抜く感覚が強まった。姿は見えない。しかし、そこにある「何か」の気配だけが、濃密に、息苦しいほどに、ユキの周囲に満ちていく。

そして、その奇妙な匂いが、時折、自宅の部屋でもするような気がしてきた。カーテンの隙間から、視界の端で何かが動いたような、微かな気配。壁の向こうから、誰かが楽しげに笑っているような、幻聴。リョウに打ち明けても、「疲れてるんだよ、ユキは」と、いつものように軽くあしらわれるだけだ。ユキは、自分が精神的に壊れていくのか、それとも、あのクラブに潜んでいた「何か」が、現実世界にまで、その手を伸ばしてきているのか、その境界線が曖昧になっていくのを感じていた。

春の陽気は日増しに深まっていくが、ユキの周りの空気だけは、常に重く、冷たいままだった。クラブに行った夜以来、ユキの部屋の片隅には、あの甘く腐敗したような匂いが、微かに、しかし確実に漂い続けている。眠ろうと瞼を閉じれば、あのクラブの薄暗い一角が鮮明に浮かび上がり、誰かの視線が、すぐそばにあることを感じさせる。それはもう、悪夢の類ではなかった。目覚めている間にも、すぐ隣に「それ」がいるような、確かな感覚。春の訪れと共に、ユキの日常は、決して消えることのない、見えない「何か」の気配に、静かに、しかし逃れようもなく、覆われていった。

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