職員室の窓辺、旅路の果て

梅雨明け前の蒸し暑い日。古びた高校の職員室は、淀んだ空気が埃と古い紙の匂いを纏い、肌にまとわりついていた。佐伯徹は、窓の外に目をやっていた。灰色の空と、その向こうにぼんやりと霞む山並み。その単調な風景は、佐伯の日常そのもののように、澱み、動かない。

「佐伯先生、今日の天気予報、なんだか変なのよ」

田中陽子が、いつものように早口で話しかけてきた。彼女の声は、職員室の静寂を破る波紋のように、佐伯の意識に届く。しかし、佐伯の心はもう、この蒸し暑く、退屈な職員室にはなかった。

彼の意識は、机の引き出しの奥に仕舞われた、使い古されたスケッチブックへと滑り落ちていく。そこには、風が肌を撫でた熱、砂塵の匂い、遠い星空の冷たさが、鉛筆の線となって刻まれている。それは、彼が抱える静かな孤独の、もう一つの輪郭だった。

ふと、佐伯は窓の外の景色に奇妙な違和感を覚えた。風が吹いているはずなのに、カーテンは微かに揺れることすらしない。空の色は、どこか不自然なほど均一で、深みを欠いていた。職員室の時計の針は、通常よりも遥かに遅く、重く進んでいるように見える。まるで、時間がこの空間だけ、粘性を帯びたように。

田中は、佐伯の沈黙に気づかず、給食の献立について熱弁を振るっている。「今日のカレー、ちょっとスパイスが効きすぎてるかしら、なんて心配になって」

佐伯は、この職員室そのものが、時間が止まった「箱」なのではないかと感じ始めた。それは、彼の長年続いた単調な日常の停滞そのもののようだった。肌にまとわりつく空気、耳に届く遠い世界の喧騒。すべてが、一枚の古びた絵画のように、色褪せ、静止していた。

佐伯は、その箱から逃れるように、脳裏で過去の旅の記憶を辿った。荒野を吹き抜ける風の音。それは、肌を撫でる熱そのものだった。砂漠の夜空に瞬く星々。そこには、彼が抱える虚無感と共鳴する、圧倒的な広がりがあった。海岸線に打ち寄せる波の匂い。それは、職員室の澱んだ空気とは対照的な、生命の息吹そのものだった。

スケッチブックに描いた、孤独な風景が鮮やかに蘇る。荒野に一本だけ伸びる道、地平線に沈む夕日、そして、そのすべてを見守るかのような、静かな夜空。肌に感じる風の温度、遠くから聞こえる獣の声、星屑の匂い。それらは、職員室の澱んだ空気から解き放たれた、紛れもない現実の感覚だった。

その時、佐伯は窓の外に、かつて旅で見た、広大な雪原の風景が広がっていることに気づいた。それは現実でありながら、職員室の退屈な光景とも重なり合っている。どこまでも続く白銀の世界。風が雪を巻き上げ、遠くで凍てついた獣の咆哮が聞こえるようだ。

田中は、佐伯が窓の外をじっと見つめていることに気づき、心配そうに尋ねた。「佐伯先生、どうかなさいましたか?どこか遠くへ行きたいんですか?」

佐伯は、遠い目をして、雪原の彼方を見つめたまま、微かに呟いた。「旅は、退屈の解毒剤ですから」

その声は、職員室の静寂の中に、微かに溶けていった。田中の話し声は、もはや遠い世界の音のように聞こえ、佐伯の意識は、雪原へと深く、深く沈んでいく。

佐伯は、窓の外の広大な雪原の風景に、自身の存在も、職員室の退屈な時間も、すべてが溶けていくのを感じた。それは寂しさでも、解放でもない。ただ、世界が圧倒的な広がりを持って存在しているという、静かな事実。雪原に、佐伯自身の足跡が、ほんの一瞬だけ現れては、風に消えていく。田中の姿は、もう職員室の片隅に、ぼんやりと霞んで見えた。職員室の時計の針は、相変わらず、ゆっくりと、しかし確実に進んでいる。雪原は、ただ静かに広がっていた。

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