蔵の中のラプソディ

「…で、このカセットテープ、誰のだって?」

蔵の中は、夏の日差しさえも埃の粒子に遮られ、薄暗い。悠真は、祖父の遺品と化したレコードの山から、一枚のテープを手に取った。

「祖父のだよ。昔、自分で作った曲だって、父さんが言ってた。未発表だって。」

「ふーん。へぇ、おじいさん、そんな趣味も?」

美咲は、屈託なく笑う。その笑顔は、この埃っぽい空間に、一瞬だけ陽光を呼び込んだかのようだった。

「…。」

悠真は、言葉を継ぐ代わりに、蔵の片隅に置かれた、黒ずんだピアノの鍵盤にそっと指を滑らせた。祖父のメロディーが、カセットテープから微かに漏れ聞こえる。埃と、古い木材と、そして、このメロディーの響きが、蔵の空気を震わせる。いや、震えているのは、悠真自身の心臓かもしれない。

「…弾いてみてよ。」

「無理だよ、途中で…。」

「いいから!」

美咲の強い声に、悠真は促されるようにピアノに向かった。流れる祖父のメロディー。それをなぞるように、指を動かす。だが、数小節も進まないうちに、指が止まった。やはり、曲は、完成していない。

「…やっぱり、ダメだ。」

「…。」

その夜、美咲から連絡があった。「明日、寄るね。」幼馴染の、あの快活な声は、なぜか少しだけ、遠く聞こえた。

「…これ、おじいさんの曲?」

翌日、蔵を訪れた美咲は、カセットテープを手に、興味深そうに悠真を見た。

「うん。でも、完成してないんだ。」

「…。」

美咲は、悠真の隣に座り込み、テープを再生した。流れるメロディー。美咲の瞳が、きらりと光る。

「…すごく、いい。このメロディー、私、好き。インスピレーションにしたいな。」

「え…?いや、それは…。」

「ダメ?」

「いや、そういうわけじゃ…。」

祖父の、未完成の想いを、勝手に弄ばれるような気がして、悠真は抵抗を感じた。だが、美咲の真剣な眼差しに、言葉を失った。

「…楽譜、あるの?」

「…少しだけ。」

二人は、蔵の隅に積まれた楽譜や、祖父のメモを頼りに、曲の断片を繋ぎ合わせていく。美咲は、音楽配信で培った知識や経験を、悠真に惜しみなく伝えた。

「このメロディー、どこか懐かしい響きがあるわね。でも、まだ何か足りない感じ。」

「…。」

悠真は、専門用語を早口でまくし立てたかと思えば、ふいに言葉に詰まった。

「…この…この感情を、どう表現すれば…。」

「…。」

作業中、美咲が、埃まみれの本の山から、古びた日記帳を見つけ出した。

「…これ、おじいさんの日記?」

「…。」

美咲は、ページをめくり、ある一節を読み上げた。

『彼女への想いを、この曲に託したい。けれど、言葉にならない。』

「…おじいさん、誰かに、伝えたい想いがあったのね。」

祖父の曲は、ある女性への、伝えきれなかった想いが込められた、incomplete なラプソディだったのだ。悠真は、祖父の隠された恋を知り、衝撃を受けた。

「…この曲は、完成させることだけが目的じゃない。おじいさんの、伝えられなかった気持ちを、今の私たちで、新しい形で表現するんだよ。」

美咲は、悠真の戸惑いを察し、蔵のピアノに向かった。そして、祖父のメロディーに、新しいアレンジを加えて、弾き始めた。その瞬間、蔵全体が、温かい光に包まれた。埃っぽい空気が、澄み渡っていくような、幻想的な空間が生まれた。

美咲が奏でる、祖父のメロディーに新たな息吹が吹き込まれた音楽。悠真は、その音に導かれるように、ピアノの鍵盤に手を伸ばした。二人の手が重なり、蔵のピアノから、これまで聴いたことのない、切なくも力強い旋律が溢れ出す。夏の夕陽が、その音色に呼応するように、蔵の中を茜色に染めていく。

「ね、これ。きっと、おじいさん、喜んでるよ」

美咲が、悠真の顔を見上げ、微笑みながら言った。

音楽は、静かにフェードアウトしていく。蔵の静寂の中に、二人の熱い鼓動と、まだ語られぬ未来への期待だけが、残響のように響き渡った。

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