失われた記憶の断片
冷たい空気が、神崎の頬を撫でた。記憶調査官として、彼は数多の偽りの記憶、歪められた真実の断片を拾い集めてきた。だが、今回の佐伯玲の事件は、どこか異質だった。彼女は、元同僚の橘隼人に襲われたと証言する。だが、その記憶は霧がかかったように曖昧で、断片的だ。
「いつ、どこで、何があったのか、はっきりと覚えていないのです」
佐伯の声は掠れていた。憔悴しきった顔には、恐怖と混乱の色が濃く浮かんでいる。
神崎は、佐伯の記憶にアクセスするため、特製の記憶再生装置のシートに彼女を横たえた。微かな電子音と共に、佐伯の意識が過去へとダイブしていく。神崎の視界にも、断片的な映像が流れ込んできた。薄暗い研究室。金属の鈍い光。そして、悲鳴。
だが、妙だ。佐伯の証言する犯行の状況と、現場に残された物的証拠に、微妙な食い違いがある。傷の角度、力の加減。どれもが、彼女の語る「橘による襲撃」とは、わずかに、しかし決定的に異なっていた。
さらに、佐伯の記憶には、事件とは無関係のはずの、ある情景が繰り返しフラッシュバックした。それは、夕暮れの公園。ブランコ。そして、子供の泣き声。まるで、神崎自身の、あの忌まわしい過去の記憶のようでもあった。その既視感に、神崎はわずかに眉をひそめた。
橘隼人は、傲慢な笑みを浮かべていた。佐伯の証言を、鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿げている。彼女こそ、研究データを盗み、私を陥れようとした。事故に見せかけて、私を始末しようとしたんじゃないのか?」
橘の言葉には、佐伯への隠しきれない敵意が滲んでいた。神崎は、両者の食い違う証言と、佐伯の記憶に混じる奇妙なフラッシュバックに、真実を見失いそうになっていた。あの公園の記憶。あれは、確かに自分の過去のトラウマと重なる。なぜ、佐伯の記憶に、それが現れるのか。
神崎は、佐伯の記憶の深淵に分け入った。記憶再生装置の出力を最大にする。佐伯の意識が、悲鳴のような苦痛に歪む。そして、ついに、隠されていた真実の断片が、剥き出しになった。
「…違う…これは…私が…」
佐伯の記憶は、凄惨な事実を露呈した。彼女が「橘に襲われた」と訴えていた記憶は、偽りだった。いや、正確には、過去に彼女自身が犯した、別の罪の記憶を、無意識のうちに書き換えていたのだ。その罪。それは、事故ではなかった。意図的な、殺人だった。
そして、その被害者。
神崎の息が止まった。脳裏に焼き付いた、夕暮れの公園。ブランコ。泣き声。あれは、神崎が幼い頃、目の前で起きた、あの悲劇だった。そして、その被害者は、神崎がずっと探し求めていた、あの人物だったのだ。
真実は、あまりにも残酷だった。佐伯は過去に、神崎のトラウマの原因となった人物を、事故に見せかけて殺害していた。その罪悪感から逃れるため、彼女は記憶操作技術を使い、その記憶を「自分が橘に襲われた傷害事件」として上書きしていたのだ。橘は、佐伯の不正を知り、問い詰めようとした。だが、佐伯は巧みに記憶を操作し、橘を犯人に仕立て上げようとしていた。
神崎は、自分が追っていた事件の真相が、過去の殺人事件の隠蔽であり、さらにその被害者が自分自身と深く関わっていたという事実に、ただ立ち尽くすしかなかった。佐伯が訴えていた「傷害」は、彼女自身が過去に犯した罪の記憶から逃れるための、壮絶な自己欺瞞だったのだ。冷たい空気が、再び神崎の頬を撫でた。それは、真実の冷たさだった。