横断歩道にて、満ち足りて
静かな秋の日差しが、色づいた葉を透過して、佐伯陽子の住む閑静な住宅街を淡く照らしていた。夫を亡くして二年。陽子の日常は、遺品の整理と、庭の手入れ、そして近所の人々との挨拶程度で、波風なく過ぎていった。深い人間関係は、もはや陽子にとって、遠い過去の記憶になりつつあった。そんな陽子の生活に、唯一、規則的に波紋を投げかけるものがあった。夫の友人である伊藤健一からの、週に一度の電話だった。電話口の伊藤は、いつも陽子の身を案じ、言葉を選びながら、その日の食事や体調を尋ねてくる。その親切は、孤独な陽子にとって、一筋の温かい光のように感じられた。しかし、その光は、次第に陽子を包み込む、厚手の毛布のように、息苦しさを伴うものへと変わっていった。
伊藤からの電話は、いつしか回数を増し、陽子の日常の細部にまで入り込んでくるようになった。それは、彼女の行動を、さりげなく、しかし確実に指示する声となっていった。「陽子さん、今日は外は肌寒いですから、暖かくしてお過ごしくださいね」「夕食は、消化の良いものになさってください。温かいスープなどはいかがでしょう」善意に満ちた言葉の裏に、陽子は次第に、伊藤の支配欲のようなものを感じ取るようになっていた。まるで、自分が壊れやすいガラス細工であるかのように、伊藤は陽子を扱った。断ろうにも、その親切を無下にする罪悪感と、伊藤の言葉に潜む、逆らえない響きに、陽子はただ従うしかなかった。それは、陽子にとって、静かな檻に閉じ込められていくような感覚だった。
ある晴れた秋の日、陽子は近所のスーパーへ、数日分の食料品を買いに出かけた。季節の野菜を籠に入れ、ふと空を見上げると、澄み渡った青空が広がっていた。買い物を終え、自宅へと続く一本道を歩く。自宅近くの、信号のある横断歩道に差し掛かった時、ポケットの携帯電話が鳴った。画面には「伊藤健一」の文字。陽子は、ため息をつきながらも、通話ボタンを押した。「もしもし、陽子です」
「陽子さん、今どちらにいらっしゃいますか?」伊藤の声は、いつも通り、穏やかで、陽子を気遣う響きを帯びていた。「あ、今、家の近くの横断歩道です。信号待ちをしています」「そうですか。無理なさらないでくださいね。お荷物はお重くないですか?何か困ったことがあれば、いつでも私に仰ってください。私は、陽子さんのために、いつでもここにいますから」伊藤の言葉に、陽子は一瞬、温かいものが胸に広がっていくのを感じた。やはり、この人の親切は、本物なのだ。夫の死後、唯一、自分を気にかけてくれる伊藤の存在が、陽子を支えていた。信号が青に変わり、陽子がゆっくりと横断歩道を渡り始めた、その時だった。
「陽子さん」伊藤の声が、再び携帯電話から響いた。しかし、その声色は、先ほどまでの穏やかさとは全く異なっていた。どこか冷たく、そして、陽子には理解できない、奇妙な満足感のようなものが滲んでいた。「あなたが、一人でいる姿を見るのが、どれほど『心地よかった』か。あなたが、私を『必要としてくれる』のが、どれほど『満たされる』ことだったか」陽子は、その言葉の意味を理解できず、歩みを止めた。横断歩道の真ん中で、立ち尽くす。伊藤は、陽子の反応を待つでもなく、続けた。「あなたが、あの横断歩道で、信号が青になるのを『じっと待っている』姿を見るのが、どれほど『満足』だったか。あなたが、私の指示通りに、私の声だけを聞いて、『大人しく歩いてくれる』のが、どれほど『満足』だったか」
陽子は、伊藤の言葉の真意を、全身の毛穴が開くような感覚で理解した。夫の死後、伊藤は、孤独で弱い自分を「保護」することで、自らの存在意義を確認し、その「世話焼き」という行為に、歪んだ自己満足と支配欲を満たしていたのだ。親切や心配という言葉は、全て、陽子を自分の意のままに動かすための、巧妙な罠だった。電話の向こうで、伊藤は満足げに、そして、どこか恍惚とした表情で、静かに笑っているのが聞こえた。陽子は、渡りきった横断歩道の向こう側で、ただ立ち尽くしていた。親切という名の、見えない棘が、全身を貫いたような、冷たく、悍ましい感覚だけが、陽子の全身を駆け巡っていた。それは、人間というものの、底知れぬ欺瞞と、それに無自覚に囚われてしまう、自身の愚かさを突きつける、冷たい現実だった。