チェス盤上のロンド:踊る駒たちの物語
チェス盤上のロンド:踊る駒たちの物語
田中一郎、その男の人生はチェスと共にあった。いや、チェスが人生そのものだったと言うべきか。コミュニティセンターの一室、使い古されたチェス盤を前に、彼はただひたすらに駒を動かす。その眼差しは鋭く、まるで盤上のすべてを見透かしているかのようだ。周囲には、彼と同じくチェスに魅せられた数人の男たちがいるが、一郎との会話は、せいぜい「チェック」と「チェックメイト」くらいのもの。それ以上でも、それ以下でもない。
そんな静寂を破ったのは、隣室から漏れ聞こえてくる、けたたましい音楽だった。ドンドコ、ドンドコ、腹に響くようなリズム。一郎の眉間に、一瞬、深い皺が刻まれた。集中力が、まるで薄氷を踏むように砕け散る。
「あらー、ごめんなさーい! ちょっと音、大きすぎちゃいました?」
ドアが開き、そこに現れたのは、太陽のような笑顔の女性だった。佐藤花子。近々このセンターでダンス教室を開くという彼女は、底抜けに明るい声で、一郎の静謐な世界に土足で踏み込んできた。
一郎は、彼女の存在そのものが、チェス盤上の「想定外の配置」のように感じられた。無口で、感情の起伏は凪の海面のように平坦な彼にとって、花子の賑やかさは、理解不能なノイズだった。彼女が次から次へと繰り出す言葉の奔流。ダンス? ステップ? リズム? 何がどうして、どうなるというのか。チェスとは、論理と戦略の結晶。そこに、あの軽やかな、いや、むしろ騒がしい「ダンス」の入り込む余地など、微塵もなかった。
「ふふ、そんなに嫌そうな顔しないでくださいよ! 私、花子って言います! あなたは?」
「……一郎。」
「一郎さん! いいお名前! チェス、お好きなんですねー! 私、ダンス大好きなんですけど、チェスって、なんだかダンスみたいじゃないですか? 駒の動きとか、ルーティンとか!」
一郎は、言葉を失った。ダンスとチェスが同じ? 冗談も休み休み言え、というものだ。しかし、花子は、一郎の戸惑いなど意に介さず、屈託のない笑顔で話し続ける。その笑顔には、不思議な力があった。まるで、凍てついた湖面に差し込む陽光のように、一郎の心の壁に、ほんのわずかな亀裂を生じさせた。
「一郎さん、今度、私のダンス、見に来てくださいね! きっと、一郎さんのチェスにも、新しい発見があるはずですよ!」
花子の言葉に、一郎はかすかに頷いた。その頷きが、後に奇妙な交流の始まりになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
数日後、花子は毎日のように一郎の元を訪れるようになった。チェス盤の脇で、軽やかなステップを踏んでみせたり、駒を指でつまみ、まるで踊るかのように盤上を滑らせてみせたりする。
「ほら! このキングの動き、ちょっと決まってるでしょ? まるで、華麗なソロダンス!」
「……あれは、じり貧だ。」
一郎の冷静なツッコミに、花子はケラケラと笑う。
「あはは! そうですよねー! でも、でも、その「じり貧」だって、一生懸命、必死に動いてるんですもん! そこが可愛いじゃないですか!」
花子の情熱は、一郎の論理の世界に、予想外の「味」を加え始めた。チェスの駒の動きに、確かに「流れ」があり、「リズム」がある。それは、花子のダンスと通じるものがあるのかもしれない。一郎は、花子にチェスの定跡を教え、花子は一郎にステップを教える。奇妙な師弟関係が、静かに、しかし確かに、育まれていった。
「一郎さん、このクイーンの動き、もっとこう、優雅に!」
「……は、はあ。」
「そうそう! 素晴らしい! まるで、タンゴのステップ!」
「……。それは、キャスリングではない。」
そんな二人の様子を、チェス仲間の一人、鈴木次郎は、いつもニヤニヤしながら眺めていた。
「へぇ、一郎も、ついに人間らしい感情を覚えたか? ま、せいぜい、盤上の駒みたいに、踊らされてるだけだろうがな。」
ある日、コミュニティセンターで、チェス大会とダンス発表会が同日開催されることになった。一郎は、花子の発表会を観に行く約束をした。しかし、チェス大会は、予想外の盛り上がりを見せていた。一郎の対戦相手は、これまで対戦したことのない、強敵だった。盤上では、激しい攻防が繰り広げられる。一郎は、花子との約束を胸に刻みながらも、目の前の戦いに全神経を集中させた。
花子は、ステージ袖で、一郎が来るのを待っていた。そろそろ、一郎の出番が終わる頃だ。彼女は、期待に胸を膨らませながら、自分の出番を待つ。そして、アナウンスが流れた。
「それでは、次にご紹介するのは、佐藤花子さんです! 皆様、盛大な拍手でお迎えください!」
花子は、満場の拍手の中、ステージへと駆け出した。躍動する音楽。軽やかにステップを踏む花子。その姿は、まるでチェスのクイーンのように、盤上を縦横無尽に駆け巡っているようだった。一郎は、チェス盤上の駒の動きに、花子のダンスのステップが重なるような感覚を覚えた。そして、ついに、相手のキングに「王手」をかけた!
その瞬間、会場に、アナウンスの声が響き渡った。
「…以上をもちまして、佐藤花子さんのダンス発表会は、終了となります。皆様、ありがとうございました!」
一郎は、アナウンスに一瞬、意識を奪われた。その隙を突かれ、相手の駒が、一郎のキングに襲いかかる。「チェックメイト」を告げる、冷たい宣告。
一郎は、呆然と盤上を見つめた。そして、ゆっくりと駒を片付け始めた。額には、脂汗が滲んでいる。彼は、足早に花子の元へと向かった。ダンス発表会が終わった会場は、すでに片付けが始まっていた。花子は、寂しそうに、一人、ステージの端に立っていた。
「……一郎さん、来てくれたんですね。」
「……。」
一郎は、かすかに頷いた。そして、長年、無口を絵に描いたような彼とは思えない、流暢な言葉で、花子に語りかけた。
「君のダンスは、まるで……」
そこまで言いかけて、一郎は言葉を詰まらせた。花子は、期待と不安の入り混じった表情で、一郎を見つめる。会場にいた数人の観客、そして、飄々とした鈴木次郎も、固唾を飲んで、一郎の次の言葉を待っていた。
一郎は、しばらくの間、深く息を吸い込んだ。そして、絞り出すように、しかし、確かな声で言った。
「……引き分け、という名の、美しい詰みだった。」