培養された手紙と、上昇するリフト
湿度百二十パーセント。そう表示された計器が正しければ、ここは既に水中であるはずだった。しかし、私の肺は溺れることなく、ただまとわりつくような「緑」を呼吸していた。
街外れの坂道を登りきった先にあるその場所は、「緑の郵便局」と呼ばれている。ガラス張りの外観は温室そのもので、扉を開けた瞬間に眼鏡が曇り、視界が乳白色に染まった。拭っても無駄だった。その白さは水蒸気ではなく、空気中に飽和した植物たちの吐息だったからだ。
私は右手に、鉛の塊のような封筒を提げていた。中に入っているのは便箋三枚だけだというのに、腕が抜けそうなほどに重い。宛名はない。ただ、過去に置いてきた恋人への、行き場のない謝罪だけが詰め込まれている。
「いらっしゃいませ。光合成日和ですね」
カウンターの奥から声がした。木製のカウンターは、私が手を置くとドクン、と脈打ち、指先に微かな体温を伝えてきた。この郵便局は生きている。あるいは、腐りかけているのかもしれない。
現れたのは、白衣を着た局長だった。胸ポケットにはペンではなく、シダ植物が数本、無造作に挿されている。彼の白衣には、インクの黒と苔の緑が混ざり合ったような、複雑な地図が描かれていた。
「手紙を、出したいんです」
私は重たい封筒をカウンターに載せた。ズン、と鈍い音がして、木の天板がわずかに窪む。
「ほう。これはまた、ずいぶんと質量の高い後悔ですね」
局長はアンティーク調の天秤を取り出し、片方の皿に手紙を載せた。反対側の皿には何も載っていないのに、針は振り切れ、異常な数値を弾き出した。
「やはり。重すぎますね」 「切手代は、いくらでも払います」 「金銭の問題ではありませんよ」
局長はシダの葉を一枚ちぎり、口に含みながら首を振った。
「インクが紙の繊維を通り越して、過去の地層まで染み込んでいます。謝罪の言葉が凝縮されすぎて、ブラックホールになりかけている。このまま配達すれば、配達員の自転車ごと時空の裂け目に沈んでしまうでしょう。物理的な重さではなく、『意味の重力』が強すぎるのです」
「では、この手紙は届かないと?」
「届きませんし、戻りもしません。ただ沈むだけです」
私は途方に暮れた。この重りを抱えたまま、残りの人生を歩むことなど想像できなかった。
「そこで、提案があります」
局長は白衣の袖をまくり、カウンターの奥にある巨大なガラス槽を指差した。中では、エメラルドグリーンの液体がぼこぼこと泡立っている。
「言葉を発酵させるのです」 「発酵?」 「ええ。科学的な編集や推敲ではなく、もっと原始的で、有機的な処置です。この培養液に浸し、言葉の角を菌類に食べさせる。そうすることで、鋭利な悲しみを、まろやかな有機物へと変質させるのです」
局長の説明は、論理的であるようでいて、どこか決定的に破綻していた。しかし、この湿気た空間では、その破綻こそが正解のように思えた。
言われるがまま、私は手紙を局長に託した。彼はピンセットで慎重に封筒を摘み上げると、ガラス槽の真上に設置された奇妙な機械へと歩み寄った。
それは、スキー場のリフトだった。
錆びついた支柱が温室の天井へと伸び、二人乗りの座面が、ワイヤーに吊るされて揺れている。場違いな光景に私が目を白黒させていると、局長はリフトの座面に、人間を座らせるように丁寧に手紙を置いた。
「行ってらっしゃい。良い旅を」
ガコン、という硬質な音と共に、リフトが動き出した。手紙を載せた椅子は、ゆっくりと上昇を始める。
「なぜ、リフトなんです?」
「言葉は地上にあると腐りやすいのです」
局長は天井を見上げながら、恍惚とした表情で言った。
「重力に逆らい、成層圏の純粋な『無意味』に近づけることで、初めて鮮度は保たれる。意味の重圧から解放された言葉は、そこで胞子となり、新たな形を得るのです」
リフトは霧のかかった天井付近へと吸い込まれていった。姿が見えなくなると同時に、頭上から極彩色の粉が雪のように降り注いできた。それは冷たく、肌に触れるとチリチリと甘い音を立てて溶けた。
「胞子が降ってきましたね。発酵は順調です」
時間は、一秒のようでもあり、一世紀のようでもあった。湿度が私の感覚を麻痺させ、時計の針を溶かしていた。
やがて、滑車の回る音が再び響き、霧の向こうからリフトが戻ってきた。
座面には、手紙はなかった。
代わりに、瑞々しい一玉のキャベツが、王様のように鎮座していた。
「素晴らしい」
局長は感嘆の声を漏らし、リフトからキャベツを抱き上げた。その表面には朝露のような水滴が光り、ぎっしりと葉が巻かれている。
「これが、手紙の成れの果てですか?」 「いいえ、成れの果てではありません。これこそが、あの手紙の本来の姿です。言葉の角が取れ、意味が発酵し、幾重にも重なり合って、沈黙という名の球体になった」
局長はキャベツを私に手渡した。ずしりとした重みはあるが、あの嫌な重力は消え失せていた。それは、命の心地よい重さだった。
「どうぞ。味わってみてください」
説明も調味料もなかった。私は促されるまま、キャベツの一枚を剥がし、口に運んだ。
シャリ、という音が頭蓋骨に響く。
その瞬間、口の中に広がったのは、野菜の味ではなかった。
それは「空」の味だった。
突き抜けるような青と、雲の白さ。成層圏の無風地帯。言葉になる前の、純粋な気配。
私の中で、「重い」と「軽い」という概念が融解した。鉛のようだった身体が、風船のように希薄になっていく。
足元の床が遠ざかるような感覚に襲われたが、恐怖はなかった。私はキャベツを抱きしめたまま、世界認識そのものが、ふわりと床から遊離していくのをただ感じていた。
昨日の私がどこにいたのか、もう思い出せそうになかった。