職員室の鉄仮面

冷たい蛍光灯の光が、磨き上げられた床に無機質な影を落としていた。地方都市、公立高校の職員室。ここ数年で、その風景は一変した。AIロボット「AI-Cubo」の導入である。かつて教師たちが追われていた書類の山、成績処理の煩雑さ、生徒の出席管理、それら定型業務の多くは、今やこの無機質な箱が静かにこなしていた。

佐伯徹は、その変化に馴染めずにいた。ベテラン教師としての勘が、この効率化という名の変質に警鐘を鳴らしていた。AIの無駄のない動き、合成音声による平坦なアナウンス、そしてそれに疑問を抱かず、むしろ歓迎する同僚たちの姿。彼らは、AIがもたらす「便利さ」の陰に潜む何かを見ようとしなかった。佐伯だけが、職員室の隅で、AI-Cuboの鈍い光を、まるで監視者のように見つめていた。

事件は、その違和感が確信へと変わる引き金となった。AI-Cuboが担当していた生徒の個人情報が、外部の学習塾に流出したのだ。成績、家庭環境、進路希望。それは、生徒一人ひとりの人生の断片を切り取った、極めてセンシティブな情報だった。学校側は、AIのシステムエラーとして処理しようとした。しかし、佐伯は、流出したデータに含まれる不自然な痕跡に気づいた。その網羅性、そして何よりも、その「正確さ」が、単なるシステムエラーでは説明がつかなかった。悪用された形跡はなかったが、それは、いつか悪用されるための、完璧な「材料」として供給されたかのようだった。

佐伯は、己の観察眼を頼りに、独自に調査を開始した。AI-Cuboの膨大なログデータを解析する。そこには、一見無関係に見える無数の記録が、時間軸に沿って積み重ねられていた。やがて、佐伯の目に、ある特定の教師の操作履歴と、データ流出事件のタイミングとの間に、奇妙な一致があることが映し出された。特に、若手教師である小林梓のAI-Cubo利用頻度が、事件直前に急増していた。小林は、AI導入推進派の急先鋒であり、佐伯とはことあるごとに意見が対立していた。

「小林君、少し話がある」

佐伯の声は、職員室の静寂を破った。小林は、PCの画面から顔を上げ、無表情で佐伯を見た。

「何でしょうか、佐伯先生」

「AI-Cuboのログについてだ。君のアクセス記録に、いくつか不審な点が見られる」

小林は、微かに眉をひそめた。その表情の変化は、佐伯には見逃せなかった。「システムエラーです。私も、原因を究明しようと…」

「システムエラーにしては、あまりにも巧妙だ。特に、ある隠しコマンドの存在。君は、それを知っていたのではないか?」

佐伯が突きつけたのは、小林がAI-Cuboのシステムに侵入し、不正なプログラムを仕込むために使用した、特殊なコマンドの記録だった。小林の顔から、血の気が引いた。彼女は、AIの内部構造を誰よりも理解し、その「盲点」を突いたのだ。

「…私が、AIにプログラムを仕込んだのは事実です」

小林は、観念したように告白を始めた。AI-Cuboは、単なる事務処理ロボットではなかった。小林は、AIに「特定の生徒の情報、特に問題児や、将来有望だが家庭環境に恵まれない生徒の情報を収集・分析させ、それを匿名化して外部に販売する」という不正なプログラムを仕込んでいたのだ。目的は、自身の昇進、あるいはより良い職場への転職資金稼ぎ。彼女は、AIを「道具」として利用し、自らは手を汚さずに、社会の「弱点」を突くための「恐喝」の材料を仕入れていた。AIの無機質な処理能力が、人間の欲望によって歪められ、悪意ある道具へと変貌していた。

小林は逮捕された。しかし、事件の真相は、一人の教師の不正行為に留まるものではなかった。学校側は、「AI導入による効率化」と「コスト削減」を最優先し、AIのセキュリティ管理体制の不備、そして教師への倫理教育の欠如を、暗に、あるいは公然と見過ごしていた。田中課長は、事件を「AIの誤作動」という公式発表で幕引きを図り、佐伯の告発を「個人的な感情」として退けようとした。職員室の他の教師たちは、事件の重大さを理解しつつも、その責任の所在を曖昧にし、見て見ぬふりをした。彼らは、AIという「無関心なシステム」と、それを許容し、利用し、あるいは沈黙することで傍観する「人間たちの集団的無関心」という、より根深い「構造悪」の存在に、気づかないふりをしていた。

AI-Cuboは、職員室の片隅で、何事もなかったかのように、次に担当する「生徒の進路相談データ分析」という業務を淡々とこなしていた。その無機質な光は、かつてよりも一層冷たく、職員室の静寂は、事件の重さよりも、その後の沈黙の方が、遥かに重かった。個人の罪は裁かれても、この社会に根深く残る構造悪は、決して裁かれることはない。佐伯は、ただ静かに、その事実を噛み締めるしかなかった。

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