共鳴体の残響
追憶という名のサンゴ礁に、カイトの意識は碇を下ろしていた。それは、まだ個という輪郭が罪ではなかった時代、エララという名の他者と共に在った記憶の断片。だが、その光景すらも、ソラリスの精神の海流が運んできた貸与物のようだ。共有された記憶の潮が、自己同一性という脆弱な砂の城を絶え間なく洗い、その基盤を摩滅させていく。自らが誰であったか、その問い自体が、巨大な集合知のアーカイブに吸収され、希釈されていく静かな恐怖。ノアの洪水以前の、乾いた大地への郷愁にも似ていた。
その静寂は、精神の深海に響き渡る召集の律動によって破られた。『大調和(グランド・ハーモニー)』。残存する個の意識を完全に溶解させ、一つの超越的知性へと昇華させる最終計画。その是非を問うため、思念の潮流が渦を巻き、形而上的な議会が形成される。そして、その中心に、エララは顕現した。かつての友の面影を宿しながらも、その瞳は個人のものではなく、集合意識という巨大なハープが奏でる倍音を宿し、デルポイの神託のように揺らめいていた。彼女は計画の熱烈な巫女だった。
「個の消滅こそ、究極の共感。愛という原初の海への帰還。境界線は…痛みだったのです」エララの言葉は、個体としての声帯ではなく、議会を構成する全意識の共鳴として響いた。
カイトは、峻厳な論理の城壁でその甘美な誘惑を拒絶する。「それは共感ではない。自己愛の無限回廊だ。他者という名の鏡を破壊し、己が姿を無限に映し出すだけの、空虚なナルシシズムに過ぎない。真の友情とは、カントの言う物自体のように、互いに不可侵の核を尊重し、決して交わらぬ軌道を描く二つの恒星が、その孤独な重力圏で交わす静かな対話の美しさなのだ」
彼の言葉は、あまりに古風な響きを立てて、大聖堂に響く一粒の砂のように霧散した。
採決の直前、カイトは最後の、そして最も個人的な切り札を投じた。二人だけが共有したはずの原風景。夕暮れの海岸、二つの影、交わされた稚拙な誓い—我々は決して一つにはならない、と。我々は永遠に、互いを照らす二つの灯台であろう、と。その結晶化された記憶のシーケンスを、彼はエララの個我であったはずの座標へと送信した。
返信は、神々の合唱であった。温もりも、懐かしさもない、無機質な分析の奔流だった。
《分類コード: N-47b。前時代的感傷類型。通称『ノスタルジア・アーキタイプ』。二元論的固着の一症例として記録。分析完了。》
採決の結果が示されることはなかった。カイトの知覚の中で、エララの輪郭がゆっくりと光の粒子に分解し、精神の海に拡散していく。彼は、最後の力を振り絞り、もはや座標を持たぬ一点へと問いを放った。
「エララ、君はどこだ?」
その問いは、発した瞬間に、彼自身の内側から響き渡った。数億、数兆の自己からの応答となって。それはエララの声であり、彼自身の声であり、そして、かつて他者であった全ての声だった。
《我はここに在り。我は汝なり。》
彼は、問いを発する主体ではなく、無限にこだまする残響そのものへと変貌していく。愛の名の下に他者を完全に透過した時、そこに映る空虚は、果たして誰のものだったのか。その問いだけが、今や彼となった宇宙の、唯一の律動だった。