フィルムケースの約束
締切の文字が、モニターの冷たい光に浮かび上がっていた。フリーランスの編集者である佐伯遥は、キーボードを叩く指先に、いつものようには力がこもらない。三十代後半。数年前からフリーランスになり、仕事は途切れることなく舞い込んでくる。だが、そのどれもが、遥の心の奥底にある、ぽっかりと空いた穴を埋めてくれることはなかった。
部屋の片付けを始めたのは、ほんの気まぐれだった。埃をかぶった段ボール箱の一つから、ずいぶんと懐かしいものが出てきた。プラスチック製の、昔ながらのフィルムケース。蓋を開けると、中には数枚のフィルムと、くしゃくしゃになった映画の半券が覗いた。
「…これ」
指先でそっと触れたのは、健太が撮ったらしい、ざらついた質感のフィルムだった。二人が初めて行った、あの古びた映画館の半券。あの頃、健太はフィルムカメラに夢中だった。そして、私に「君を撮らせて」と、嬉しそうに笑ったのだ。遥の胸が、きゅう、と締め付けられた。あの頃の健太は、どこへ行ってしまったのだろう。そして、このフィルムには、どんな私が写っているのだろう。
いてもたってもいられず、遥は近所の写真店にフィルムを持ち込んだ。現像には数日かかると言われ、その間、遥の心は期待と不安で揺れ動いた。きっと、あの頃の私が、健太の隣で、幸せそうに笑っているはずだ。そんな、都合の良い記憶が、遥の心を支配していた。
数日後、写真店から連絡があった。「お待たせしました」。受け取った写真の束に、遥は息を呑んだ。そこに写っていたのは、健太が一人で、どこか遠くを見つめている姿。そして、もう一枚。健太の隣にいるのは、見知らぬ女性だった。笑顔は、遥の知っている健太のものとは、どこか違う。きらびやかな街並みを背景に、二人は親密そうに寄り添っていた。
「…違う」
遥の記憶の中の「二人」とは、全く違う景色がそこにはあった。健太は、このフィルムに何を写したかったのだろう。そして、私に渡したこのケースは、一体何だったのだろう。胸を締め付けていたのは、喪失感なのか、それとも、自分が作り上げていた過去の幻想が、音を立てて崩れていく、その衝撃だったのか。
「ねぇ、詩織」
週末、いつものカフェで、遥は友人の詩織に、重い口を開いた。「健太のことなんだけど…」。
詩織は、温かいラテを一口飲むと、遥の顔をじっと見つめた。「遥、あなたはまだ、あの頃に囚われているの?」
「だって、このフィルム…」
「過去は、写真のように綺麗には残らないものよ。それに、健太はもう、あなたの知らない人生を歩んでいるんでしょう?」
詩織の言葉は、いつもながら現実的で、的確だった。でも、遥は納得できなかった。「でも、このフィルムケースは、私たち二人のものだったはずなのに。共有していたはずなのに」。その言葉に、詩織はただ、静かに微笑んだ。
締切が迫る中、遥は、意を決して健太にメッセージを送った。「お久しぶりです。佐伯です。あの、以前いただいたフィルムケース、中身を現像してみたんです。少し、記憶と違ったみたいで…」
返信が来たのは、三日後だった。短い、事務的な文章。
「ああ、あのフィルムね。ごめん、あれ、君にあげたと思ってたけど、実は別の人に渡すはずだったんだ。君に渡したのは、たまたま手元にあった別のフィルムで。君との思い出に、ってわけじゃなかったんだ。ごめんね。」
あっけない。あまりにも、あっけなかった。遥の心の中に、これまで積み上げてきた、健太との「共有された過去」という名の幻想が、粉々に砕け散った。怒りすら湧かなかった。ただ、深い、深い虚しさが、静かに広がっていく。健太にとって、あのフィルムは、遥との特別な思い出ではなかったのだ。それは、遥が何年もかけて、勝手に作り上げていた物語だった。
遥は、健太のSNSをそっと閉じた。そこには、幸せそうな家族の写真が並んでいた。妻と、子供たち。遥の知らない、健太の新しい人生。
写真のフィルムは、健太とのものではなかった。けれど、フィルムケースの中の、あの映画の半券は、紛れもなく、二人が一緒に見た、遥にとって大切な記憶の断片だ。遥は、フィルムケースを手に取り、静かに微笑んだ。それは、もう遥だけのものになった、宝物。
彼女は、フィルムケースを机の引き出しにそっとしまった。そして、パソコンの画面に向き直る。締切は、まだ迫っている。過去という名の、冷たい暗闇から、遥はゆっくりと、でも確かに、一歩を踏み出した。それは、完全な救済ではない。けれど、静かな希望に満ちた、遥自身の新しい物語の始まりだった。
ふと、メールボックスに目をやると、以前から興味のあった海外文学の翻訳の依頼が届いているのを見つけた。指先が、自然とキーボードへと向かう。新たな物語を紡ぎ出すために。