トンネルを抜けた先の幻

幼い頃の記憶は、淡い靄のように、カケルの意識の片隅にぼんやりと漂っていた。両親が交通事故でこの世を去ったという事実は、叔父の無骨な言葉によって伝えられたきりで、その瞬間の鮮烈な映像は、まるで誰かの物語のように、自分のものではない感覚だった。「聞かせてはいけない」という叔父の言葉は、カケルにとって、触れてはならない聖域のように、記憶の奥底に封じ込められていた。寂れたドライブインの埃っぽいカウンターで、ただひたすらに乾いた布を滑らせる。窓の外には、かつて賑わいを見せたであろう頃の面影を残す、廃れかけた地方都市が広がっていた。叔父は、いつも、カケルが幼い頃に「盗んだ」とされる古い懐中時計を身につけていた。それは、両親の形見だという。鈍い銀色の輝きは、カケルの手には一度も渡らず、叔父の無表情な指の間に、静かに時を刻んでいた。

ある日、埃まみれの窓ガラスを拭きながら、カケルはドライブインの裏手にひっそりと佇む、古いトンネルの入り口に目をやった。今はもう、車の通る音もなく、ただ静寂だけが支配する場所。その奥から、かすかに、本当に微かに、両親の声のようなものが聞こえた気がした。それは、彼が失った記憶の断片と共鳴するかのような、曖昧で、しかし確かな響きだった。カケルは息を呑み、耳を澄ませた。しかし、風の音だけが、乾いた草を揺らす音だけが、返ってきた。叔父は、このトンネルについて、決して口を開かなかった。その話題に触れようとすると、彼の顔には、普段以上の無表情が刻まれ、カケルはそれ以上踏み込むことを諦めた。

失われた記憶の糸を辿りたい。両親の温もりを、その声の響きを、もう一度感じたい。カケルの心に、抗いがたい衝動が芽生えた。その衝動は、トンネルの奥から聞こえた気がした、あの声への呼びかけだった。雨上がりの湿り気を帯びた空気が、カケルの頬を撫でた。彼は、意を決して、トンネルへと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が、全身を包み込む。湿った土と、古い鉄の匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐった。壁には、かつて無数の車が駆け抜けたであろう、タイヤの黒い痕が、まるで過去の幻影のように残されていた。進むにつれて、トンネルの壁が、淡く光り始めた。そして、そこに、映像が映し出されるようになった。それは、カケルが一度も見たことのない、しかし、なぜか懐かしさを覚える、異世界の風景だった。青い空と、見たこともない植物が生い茂る大地。そして、歪んだ形ではあるが、カケルの失われた記憶の断片が、その光景の中に紛れ込んでいるように見えた。壁に映る光景は、カケルの孤独や虚無感を、巨大な鏡のように映し出し、増幅させていく。このトンネルは、ただの道ではない。時間を歪ませ、あるいは異なる時間軸へと繋がる、一種の「装置」なのだと、カケルは悟った。その時、彼の足元に、かすかな光が灯った。それは、叔父がいつも身につけていた、あの懐中時計の輝きだった。

トンネルの出口が近づくにつれて、光は一層強くなった。そして、出口付近で、カケルは叔父の姿を目にした。夕暮れの茜色の光が、彼の背中をぼんやりと包み込んでいる。叔父は、カケルが「盗んだ」と思っていた懐中時計について、静かに語り始めた。「あれは、お前が盗んだんじゃない。お前のお父さんとお母さんが、過去の自分たちから、盗んだんだ」。叔父の声は、いつものぶっきらぼうさとは違い、どこか遠い響きを帯びていた。あの時計は、このトンネルを介して時間を移動する際に、失われた記憶や、存在の痕跡を記録する特殊な機能を持っていたという。両親は、このトンネルを使って、過去の自分たちを訪ねようとした。しかし、その過程で事故に遭い、カケルの記憶から、その全てが消え去ってしまったのだ。叔父は、カケルが同じ過ちを繰り返さないように、記憶を封じ、時計を隠し持っていたのだと。叔父は、カケルに懐中時計をそっと差し出した。そして、カケルに何も告げず、ただトンネルの奥へと、その姿を消していった。夕暮れの光が、彼の孤独な影を、荒野に溶けるように包み込み、やがて、その輪郭は、過去の幻影のように、静かに消え去った。

カケルは、叔父が消えたトンネルの出口で、ただ立ち尽くしていた。手に握られた懐中時計の冷たい感触。トンネルの向こうには、夕暮れの、どこまでも広がる荒野が、茜色に染まって横たわっていた。風が、乾いた草を揺らし、その匂いが、カケルの鼻腔をくすぐる。遠くには、かつて栄華を誇ったであろう、人工物の残骸が、静かに、静寂の中に横たわっている。両親の声は、もうそこにはなかった。失われた記憶の断片も、もう、カケルの心を掻き乱すことはなかった。あるのは、ただ、圧倒的な広がりを持つ、静寂な風景だけだった。カケルは、懐中時計をそっとポケットにしまい、その広大な風景の中に、ゆっくりと歩き出した。それは、過去との決別であり、この広大な世界への、静かな受容だった。救いでも、絶望でもない。ただ、世界が、そして彼自身が、この静寂な風景の一部として、確かに存在し続けているという、圧倒的な事実の提示だった。

この記事をシェアする
このサイトについて