竜神の涙

古びた神社の境内は、いつも静寂に包まれている。苔むした石段、鬱蒼と茂る木々、そして中央に鎮座する、古くからこの土地を守ってきたという竜神様。私は、佐倉遥。この竜神神社で巫女として、日々の祭祀と神社の管理を担っております。

幼い頃から、健吾兄さんは私の傍にいました。氏子総代の息子である彼は、いつも私のことを気にかけてくれ、神社の維持にも熱心に協力してくれます。物腰は丁寧で、その眼差しには幼い頃から変わらぬ、温かな親しみが宿っているように感じていました。彼の存在は、この静かで孤独な日々に、確かな安らぎを与えてくれるものでした。

私は、神社の奥深くに眠る古文書に記された、安土桃山時代の竜神伝説に魅せられています。そこには、神が人間に姿を変え、ある姫と結ばれるも、やがて神は人間に裏切られ、怒りによって災厄をもたらした、と記されています。その伝説を辿るうちに、私はふと、ある違和感に気づきました。

古文書の一部が、どうも不自然なのです。以前はなかったはずの記述が、ところどころに加筆されていました。特に、竜神が人間から「大切なもの」を奪われ、その怒りによって災厄をもたらした、という部分です。恐る恐る健吾兄さんに相談してみましたが、「遥、それは君の気のせいだろう。最近、少し疲れが溜まっているんじゃないか?」と、いつものように穏やかに、しかしどこか遠回しに否定されてしまいました。

それと同時に、健吾兄さんが神社の改修費用を工面しているという話も耳にするようになりました。その熱心な姿勢は素晴らしいのですが、いかんせん資金源については曖昧な点が多く、少々気にかかるのでした。そんな折、神社の古くからの参拝客である老婆が、私の傍らにそっと寄り添い、静かに呟いたのです。「竜神様はね、一度奪われたものを、決して許さないのだよ」と。その言葉は、私の胸に冷たいしずくとなって染み渡りました。

改変された古文書の記述は、私の不安を一層掻き立てました。竜神が「大切なもの」を奪われたという記述。それは、健吾兄さんの母親が亡くなった時、生前「竜神様にもう一度会いたい」と強く願っていたことと、何か関係があるのではないか。そう疑い始めたのです。健吾兄さんは、私が古文書のことを気に病んでいると察したのか、ますます私の身の回りの世話を焼こうと、過剰なまでの親切を寄越すようになりました。その細やかな配慮が、今はなぜか、息苦しく感じられるのでした。

ある雨の日、私は祖母が遺した古い日記帳を整理していました。その中に、驚くべき記述を見つけたのです。健吾兄さんの母親が亡くなる直前、祖母がある「儀式」を行った、という記録です。それは、健吾兄さんの母親の「命」と「記憶」を竜神に捧げ、その代わりに母親の「願い」を祖母が引き継ぐ、というものでした。日記には、健吾兄さんの母親は、その儀式によって「竜神と一体化」し、永遠の命を得たと信じている、と記されていました。そして、健吾兄さん自身も、母親の「記憶」の一部を、儀式を通して無自覚に受け継いでいる節がある、とも。

健吾兄さんの、母親を竜神に捧げたという歪んだ執着。それが、古文書改変の真実ではないのか。私は、日記帳を握りしめ、確信しました。

「遥、お前が竜神様を一番理解していると思っていた。だから、この神社を、そして母の願いを、お前に託したかったのだ」

健吾兄さんは、静かにそう告げました。彼の表情は穏やかでしたが、その瞳の奥には、私が見たことのない、暗い炎が揺らめいていました。

「改変された古文書は、祖母様が、健吾の母の『願い』を永続させるために、健吾の父と共に書き換えたものだ。母は、実際には竜神と一体化などしておらず、ただ祖母に『利用された』だけなのだよ」

健吾兄さんは、淡々と、しかし残酷な真実を語りました。そして、彼は続けます。「私は、その真実を隠蔽し、遥に『母の願い』を継がせることで、自分自身の罪悪感と、母への歪んだ愛情表現から逃れようとしていたのだ」

彼は、私に「神社の改修資金」を提供してくれました。それは、母親の遺産などではなく、健吾兄さんが、自身の将来を犠牲にして、必死に貯めたお金だったのです。その事実を、私は、彼の差し出した手の温かさの中に、静かに気づいたのでした。

「これからも、この神社と、竜神様のために、共に歩んでいこう」

健吾兄さんは、私に微笑みかけました。その笑顔は、私が信じていた幼馴染の、温かく誠実な笑顔ではありませんでした。それは、歪んだ支配欲と自己満足、そして母親への執着に満ちた、悍ましい顔でした。

私は、健吾兄さんの顔を見つめながら、静かに微笑み返しました。その瞳には、もはやかつての信頼はなく、ただ冷たい虚無だけが映っていました。静かに流れた私の涙は、竜神が失った「記憶」への哀悼か、それとも、健吾兄さんの歪んだ愛情が生み出した「涙」なのか。それは、もう誰にも分かりません。

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