丘の上の哲学者とライバルの解答

丘の上に立つ、白根巌の家。その書斎は、書物と奇妙な骨董品で埋め尽くされていた。窓の外には、どこまでも広がる空と、遠く霞む町の灯り。 「ようこそ、黒崎君。待っていたよ」 白根巌は、いつものように人を食ったような笑みを浮かべ、ライバルの数学者、黒崎剛を迎えた。長年の論敵であり、唯一、巌の知的好奇心を刺激する存在。今回もまた、「空間認識の絶対性」を巡る議論を深めるために、この人里離れた隠れ家へと招かれたのだ。 「議論を深める、か。君の「完璧な証明」とやらを聞かせてもらうのが先だろう」 黒崎は、巌の言葉を遮るように言った。彼の顔には、いつものように真剣さと、巌に対する僅かな苛立ちが浮かんでいる。 「ふむ、君らしい。では、私の証明の核心に触れる、この絵を見てくれたまえ」 巌は、書斎の壁に掛けられた一枚の絵を指し示した。それは、この丘の上の家と、その庭に立つ一本の木を描いた、素朴な油絵だった。しかし、黒崎の鋭い目は、すぐに違和感を捉えた。 「…この庭に、こんな木は生えていないはずだ。私の記憶違いでなければ」 「ほう、さすがは黒崎君。鋭い。その通り、現実の庭には、この絵に描かれた場所には木は一本もない」 巌は、意地の悪そうな笑みを深めた。 「では、この絵の中の木は、一体どこにあるのか? 私の「完璧な証明」はこの「一点」から始まるのだ。君の論理で、その「一点」を証明してみせたまえ。さあ、君への挑戦状だ」

黒崎は、絵画を凝視した。太陽の位置、影の向き。書斎の窓から差し込む光の角度。窓枠の木材の質感、壁にかかる古びた天球儀。どれもが、この部屋の正確な配置と、ある特定の時間軸を示唆しているように思えた。巌の潔癖症ぶりは、カップのわずかな欠けすら許さないほど徹底されており、その几帳面さが、この謎にも関係しているのだろうか。 「…窓の位置から察するに、時刻は午後3時頃。太陽は南西に位置している。影の落ち方から、方角は…」 黒崎は、頭の中で計算を始めた。庭に置かれた石の配置、花咲が淹れた紅茶の湯気。どれもこれも、一見すると謎解きとは無関係に見えた。巌は、黒崎の試みを傍らで見ながら、時折、皮肉めいた言葉を投げかけた。 「君の論理は、あまりにも常識という檻に囚われすぎている。もっと自由な発想を、黒崎君」 「黙ってくれ、巌。君の戯言に付き合っている暇はない」 黒崎は、絵画の筆致や色彩にも注意を払った。しかし、それは鑑賞の領域であり、論理的な解決には結びつかない。彼は、この絵画が、巌の「完璧な証明」における論理的な飛躍、つまり「前提の誤り」を象徴しているのではないかと考え始めた。 「絵の中の木は、現実にはありえない場所に描かれている。それは、君の証明が、現実離れした前提に基づいている証拠だ。君の証明そのものに、論理的な破綻があるのではないか?」 黒崎は、巌の「証明」の矛盾点を指摘し始めた。絵画の謎は、巌の証明の誤りを暴くための道具なのだと、彼は確信していた。 「君の証明は、この絵と同じだ。ありえない前提から、ありえない結論を導き出しているに過ぎない!」 巌は、黒崎の熱弁を静かに聞き、ただ微笑むだけだった。その表情は、まるで子供のいたずらを見守るかのようだった。

黒崎が、巌の「証明」の破綻を確信した、その時だった。 「待ってくれたまえ、黒崎君」 巌は、静かに絵画の隅を指差した。 「そこを、よく見てくれたまえ」 黒崎は、巌の指差す方向を見た。絵の具の厚みの中に、ごく小さく、しかし明確に、筆記体でこう記されていた。 『1985年夏』 「…1985年夏?」 「そうだ。君は、絵画の『木』の位置に囚われすぎた。しかし、それは単なる象徴ではない。この絵は、私が君を初めてこの丘に招いた、あの日の記憶をそのまま描いたものだ。あの時、君はこの場所で、私の「空間認識の絶対性」という証明に真っ向から異を唱えた。あの日の君こそ、私の「完璧な証明」の、そしてこの絵の「真実」そのものだったのだ」 巌が指し示した「現実には存在しないはずの木の位置」。それは、黒崎が初めて巌の元を訪れ、激しい議論を交わした、まさに「あの場所」だった。その場所から見た景色は、絵画の背景と、驚くほど一致していた。黒崎は、巌が「完璧な証明」と呼んでいたものが、実は論理の飛躍ではなく、真実の解釈の多様性を説くための、そして自らのライバルである黒崎の存在そのものを肯定するための、壮大なパズルであったことに気づいた。 絵画の謎は、数学的な計算ではなく、記憶と、二人の哲学的な対立という「文脈」によって解かれたのだ。 黒崎は、巌の用意した「解答」を目の当たりにし、長年のライバルへの複雑な思いと共に、論理の美しさと、人間的な感情が織りなす巧妙な仕掛けに、静かな感動を覚えていた。それは、厳密な論理の果てに、温かい記憶と友情が息づいていた、白根巌ならではの「アハ体験」だった。

この記事をシェアする
このサイトについて