午後の献立は『羞恥』のテリーヌ
十二時五分。世界を等分に切り分けるような鋭利なチャイムが鳴り響き、私はその音の断面から零れ落ちるけだるさを、空っぽの弁当箱で受け止めた。
蛍光灯が白昼夢の脈拍のように明滅している。この給湯室は、巨大な水槽の底に沈んでいるのかもしれない。コピー機の排熱が蜃気楼を作り出し、空間のパースペクティブを微妙に歪めているからだ。私はフォークを手に取り、部屋の隅に澱んでいる「月曜日の重苦しさ」を丁寧に巻き取った。アルデンテに茹で上がった憂鬱は、少しばかり湿り気を帯びていて、喉越しが悪い。隣の部署の会話から剥がれ落ちた「社交辞令」をクルトンのように散らしてみたが、それらは乾燥しきっていて、噛むと虚しい音がした。私の味覚にとって、このオフィスの空気は巨大なビュッフェそのものだ。けれど、今日のメインディッシュはまだ決まっていない。空腹という概念が、胃袋ではなく、私の認識の輪郭をガリガリと削っていく。
その時、給湯室のドアが開き、田中が入ってきた。
彼は、まるで書き損じのデッサンのように輪郭が滲んでいた。平凡で、真面目で、そして誰にも言えない『秘密』を抱え込みすぎたせいで、物理的な質量が飽和状態にあるのだ。彼がポケットからハンカチを取り出した拍子に、何かがこぼれ落ちた。チャリン、という硬質な音ではなく、ボトリ、という湿った音が床を打つ。
それは、半透明のゼリー状の物体だった。
田中は気づかずにコーヒーを淹れている。私は息を潜め、床に落ちたそれを観察した。微かに震えている。表面張力で辛うじて球体を保っているが、内側からは隠しきれない内面が湯気のように立ち上っていた。私はそれをそっと指先で拾い上げる。人肌よりも少し高い、じっとりとした熱。鼻を近づけると、古い図書館の埃と、冷や汗の入り混じった、ツンとする香りが鼻腔をくすぐった。
この独特の粘度。そして、内側から滲み出る桃色の蛍光。間違いない、これは極上の「羞恥」だ。
球体の中で、無数の光景が万華鏡のように明滅しているのが見える。深夜の送信取り消し履歴、誰にも言えない検索ワード、会議中に裏返った声、鏡の前で繰り返されるナルシスティックな独り言。彼が赤面するその瞬間が、結晶化してここに在る。
「いただきます」
私は音もなく呟き、食欲という名の暴力的な衝動に身を任せて、田中の「羞恥」を口の中に放り込んだ。
弾ける。
舌の上で瞬間的に広がったのは、強烈な甘酸っぱさと、錆びた鉄のような苦味だった。それは「穴があったら入りたい」という衝動そのものの味だ。幼少期、大勢の前で転んだ時の膝の痛みや、愛の告白が空回った時の乾いた風の記憶が、田中の羞恥と共鳴し、私の脳髄を痺れさせる。他人の恥部を咀嚼することは、自分自身の傷口を舐める行為に似ている。甘美で、背徳的で、そしてどうしようもなく救いがない。
喉の奥へ滑り落ちていくその感覚は、熱い鉛を飲み込んだようで、私は思わず恍惚の溜息を漏らした。これほどの純度の高い羞恥は、そうそう味わえるものではない。彼の人生の不可視の部分が、私の血肉へと変換されていく。
「あ、お疲れ様です」
コーヒーを飲み終えた田中が、ふとこちらを振り返った。
私はフォークを置いた。田中の顔を見て、私は静かに目を見張る。憑き物が落ちたようにスッキリとした顔をしているが、何かが決定的に欠落していた。その表情は、どこか書き割りのように平坦で、人間としての奥行きが消失している。
彼を立体的に構成していた重要なスパイスである「羞恥」が欠落したため、彼は「人間」という複雑な多面体から、「ただの田中」という記号になってしまったのだ。そこに感情の機微はなく、ただ名前というラベルが貼られた空虚な器だけが立っている。
「お疲れ様」
私が返すと、彼はペラペラの紙人形のような動作で会釈をし、給湯室を出て行った。ドアが閉まる音さえも、どこか平面的で響きがない。
口の中に残る、他人の人生の苦い余韻。私は満足げに唇を拭った。しかし、ふと奇妙な感覚に襲われる。今、私が食べたのは本当に「田中の羞恥」だったのだろうか。それとも、他人の内面を盗み食いしたという、私自身の「背徳感」そのものを味わっていただけなのだろうか。主観と客観の境界線が、胃袋の中で消化され、溶け合っていく。
昼休みが終わるチャイムが鳴った。
その音は、奥行きを失った田中の空洞に反響するように、乾いた音を立てて、私の鼓膜ではなく、意識の奥底でいつまでも鳴り響いていた。