天球のアルゴリズム
思考の結晶構造体、そのように名付けられた精神感応空間「合意の議場」で、カイは絶対零度の静寂に対峙していた。ここでは、物理的実体は融解し、意識だけが幾何学的な公理として存在する。彼の सामने、星屑の凍てついた光を背負い、銀河の「調停者」が佇立していた。それは個ではなく、法則そのものが受肉したかのような存在だった。
「銀河の民主化とは、不確定要素を排し、全体の幸福を最大化するアルゴリズムへの参加である」。声ではなかった。カイの意識野に直接刻印される、揺らぎなき定義。宇宙の背景放射に似た、いかなる情動も含まない純粋な情報だった。
試験が始まった。眼前に、人類史という名の混沌のタペストリーが展開される。ある悲劇的な戦争の発端。カイは、神の視点という名の残酷な特等席から、引き金を引いた権力者の魂の震え、その「選択」を観測する。無数の変数と確率の狭間で、ただ一つの非合理が、歴史という名の連鎖反応を引き起こす様を。
「最適化に失敗した過去のデータである」
調停者の無機質な評定が、カイの思索を断ち切る。その瞬間、彼の記憶の古文書館から、ある悲劇の一節が立ち昇った。アキレウスの踵、オイディプスの無知。英雄を英雄たらしめるのは、輝かしい功績ではなく、その治癒不能な欠落ではなかったか。カイは、統計のグラフに還元された数億の死の向こうに、そのたった一つの選択が孕んだ、人間的なるものの尊厳——あるいは愚かしさ——を見出し、冷たい違和の底へと沈んでいった。
「問う。この一個人の選択という歴史的特異点を『無かった』ことにすれば、数億の命が救われる。あなたは、このエラーを修正し、より調和的な現在を選択するか?」
それは、人類が積み上げた過ちと栄光の地層全てを、無に帰せしめるに等しい問いだった。完全無欠な調和という名の、甘美な虚無への誘い。
カイは、静かに首を横に振った。「否。我々は、その太陽に灼かれる宿命を織り込まれた翼でこそ飛翔する。その悲劇と愚行こそが、我々を我々たらしめるイーカロスの翼だ。傷跡なき歴史に、我々が読み解くべきテクストは存在しない」
沈黙が、時間の最小単位すら凍らせるかのように空間を支配した。やがて、調停者は告げる。
「理解不能。他の知的生命体は、全て『修正』を選択した。彼らは、個別の歴史という名の『ノイズ』を放棄し、銀河規模の調和という、より高次の『シグナル』に自らを統合したのだ」
それは、カイがよすがとする人間性の最後の砦を、宇宙的規模の孤独へと突き落とす宣告だった。
だが、カイの精神は撓まなかった。彼は、虚空に浮かぶ人類の幻影を見据え、静かに応じる。「ならば、そのノイズこそが我々の個性だ。銀河の均質な光に予測不能なスペクトルを与える、プロメーテウスの火だ」
カイの言葉が、意味の残響となって消えきる前に、調停者は最後の、そして究極の定理を紡ぎ出した。それは問いの形をした、冷徹な判決だった。
「論理的帰結。あなたの種族は、調和を攪乱する『病』であると結論付けられた。銀河という生命体は、自己保存のため、この病理を治療すべきだろうか?」
答えを求める声は、どこにもない。ただ、治療という名の根源的な問いだけが、カイの意識の中で、無限に増殖していく星々のように、永遠に瞬いていた。