夜明け前のバー

地方都市の片隅、高級ホテルのバー。佐々木恵子は、カウンターの奥で静かにグラスを磨いていた。カラン、と氷がグラスに落ちる音だけが、夜の静寂を破る。彼女の日常は、このバーでのルーティンと、時折訪れる客たちの人間模様を観察すること。それだけだった。満たされない何か、という言葉が、胸の奥で小さく渦巻く。それは、まるでバーに置かれたまま、誰にも選ばれないままの、古びたアンティークのグラスのような、そんな漠然とした空虚さだった。

その夜、街は突然、騒がしくなった。遠くでサイレンが鳴り響き、やがて怒号が、ビルの谷間を縫うようにしてバーにまで届き始めた。原因不明の暴動。ホテルのバーにも、その影響は及んでいた。普段は優雅な空気が、張り詰めた緊張感に変わる。恵子は、ただ黙々とグラスを磨き続けた。まるで、この日常だけが、現実ではないかのように。

混乱は、その男を連れてきた。普段は物静かなバーに、彼は頻繁に出入りするようになった。その目は、常におかしな光を宿していた。恵子を見つめるその視線は、どこか執着めいていて、時折投げかけられる言葉は、真綿で首を絞めるように、恵子の心の奥底にある、見栄や嫉妬といった、醜い感情の断片を巧みに刺激した。「この街は、あなたを退屈させているでしょう?」男は静かに言った。恵子は、その言葉に動揺しながらも、平静を装った。日常を壊されたくはなかった。

暴動は鎮静化した。だが、街に漂う不穏な空気は、払拭されずに残っていた。恵子の周りで、不可解な出来事が起こり始めた。誰かが部屋に忍び込んだような痕跡。些細なものが、なくなっている。男の影は、さらに濃くなっていた。同僚の田中は、恵子の顔色の悪さに気づき、眉をひそめた。「恵子さん、あの男…気をつけてくださいよ。どうも、胡散臭い。」

「でも、田中さん。」恵子は、男の言葉を反芻していた。「彼は、この日常こそが、虚偽だって言うんです。」

「虚偽?何の話です?」田中は、鼻で笑うように言った。「現実から目を逸らしたいだけでしょう。人は、都合の悪いことから逃げたくなるもんです。特に、あなたのような…」

田中の言葉は、恵子の心に届かなかった。男は、恵子の心の隙間に入り込み、彼女が抱える満たされない何かを、さらに増幅させていた。それは、まるで暗闇の中で、枯れた泉に水を注ぎ続けるような、虚しい作業だった。

その夜、バーは閉店間際。恵子と田中だけが残っていた。静寂が、重くのしかかる。ふと、ドアが開いた。男だった。その目は、いつになくギラついていた。彼は、まっすぐに恵子に向かって歩み寄ると、突然、彼女に手を伸ばした。恵子の悲鳴を聞き、田中が駆け寄る。だが、男の力は、圧倒的だった。

「あなたは、この虚偽に、いつまで甘んじているつもりだ!」男は、恵子の襟首を掴み、叫んだ。その声には、狂気が宿っていた。

恵子は、恐怖で体が震えた。だが、その時、男の言葉が、耳の奥で響いた。この日常こそが、虚偽だ。見栄、嫉妬、そして、満たされない空虚さ。それらが、彼女の中で、一気に爆発した。「うるさい!」

恵子は、衝動的に、男の顔を殴りつけた。男は、よろめき、床に倒れ込んだ。外からは、再び、街のざわめきが聞こえてきた。それは、あの夜の、暴動の残響のようだった。

男は、連行された。バーには、静寂が戻った。恵子は、呆然と、カウンターに座り込んでいた。薄明かりの中で、彼女は、グラスを磨き始めた。田中は、何も言わず、ただ、彼女の背中を見守っていた。街は、静かになった。だが、恵子の日常は、もう元には戻らない。あの夜の出来事は、彼女の心に、消えない傷跡を残した。

それでも、恵子は、明日も、このバーに立つだろう。グラスを磨き、客たちを迎え入れる。窓の外には、まだ夜明け前の、静かな街並みが広がっている。その静けさの中に、新しい一日が始まる、微かな気配を感じ取っていた。それは、完全な救済ではない。だが、生きるための、小さな、しかし確かな、一歩だった。夜明け前の、静かな祈りのような、一歩だった。

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