雷鳴の文楽宇宙
宇宙ステーション「アマテラス」の、やたらとピカピカした廊下を、星野健太は鼻歌交じりで歩いていた。宇宙服のヘルメットを片手に、同僚の田中から聞いた話を反芻する。「源さんが、引退前に文楽やるらしいぜ」 「はぁ? 文楽? あの、おじいちゃんたちがやるやつ? 宇宙で? 源さんが? あの、一日一言喋るかどうかの源さんが?」 健太は思わず吹き出した。源田宗一郎、通称源さん。このステーションで一番の古株で、寡黙すぎて、たまに喋ると皆が耳をそばだてるほどだ。そんな源さんが、文楽? しかも、引退前に「どうしてもやりたいことがある」とか言って、ステーション内に作られた、やたらと日本風な伝統芸能体験施設で、自作の物語を演じるというのだ。源さんの、普段の無口さからは想像もつかない張り切りっぷりに、健太は面白くてたまらなかった。
「源さん、大丈夫っすか? 人形、全然動いてないっすよ!」
健太は、稽古場を覗き込み、思わず声を上げた。源さんは、古めかしい着物を着て、舞台の隅で、台本を片手に静かに涙ぐんでいる。人形は、まるで置物のように静止したままだ。健太は、源さんの肩をポンと叩こうとして、寸前でやめた。 「てか、その台本、何書いてるんすか? なんか、すごい悲しい顔してるけど。源さん、もしかして、人形劇の脚本家志望だったんすか? 意外っすね!」 源さんは、ゆっくりと顔を上げた。その目は、いつもの無感動な光を失い、深い悲しみと、そして、熱を宿していた。 「これは…わしの、妻への…」 言葉が、震えて途切れた。
源さんの妻、サクラは、もうこの世にいなかった。地球で、文楽の太夫、つまり語り手を目指していた情熱的な女性だったという。しかし、病に倒れ、その夢は、志半ばで潰えてしまった。 「サクラがな、最期に遺した台本があるんじゃ。『雷鳴の恋』。いつか、宇宙へ旅立つ『サクラ号』の打ち上げの時に、この物語を演じたい、と言っておった…」 源さんの声は、静かだったが、その奥には、妻への計り知れない愛情と、叶えられなかった夢への、長年の後悔が滲んでいた。 健太は、源さんの言葉に、ただ笑い飛ばすことはできなかった。お調子者の健太も、この時ばかりは、源さんの秘めたる情熱と、妻への深い愛情に、心を打たれた。源さんは、健太に文楽の基本の型を教えようとしたが、宇宙ステーションの無重力空間では、人形は予測不能な動きを繰り返し、健太が操る人形は、まるで宇宙遊泳でもしているかのように、コミカルに宙を舞った。
引退祝いの日。会場は、源さんの芸を一目見ようと、多くの職員で埋め尽くされていた。しかし、舞台袖で、源さんが突然、苦しそうな顔でうずくまった。高熱を出したのだ。会場が、ざわめきと静寂に包まれる。 「源さん! 俺がやりますよ!」 健太の声が、会場に響き渡った。皆が呆気に取られる中、健太は源さんに詰め寄った。 「台本、貸してください! サクラさんの夢、俺が、この宇宙で、叶えてみせます!」 源さんは、健太の真剣な瞳と、その奥に宿るサクラさんへの想いを見た。ゆっくりと、震える手で、台本を健太に託した。
健太は、源さんから必死に教え込まれた文楽の型を、そしてサクラさんの遺した情熱を胸に、舞台に立った。しかし、稽古不足は明らかだった。人形はぎこちなく動き、健太の語りは、台本とはかけ離れた、的外れなものになっていく。それでも、健太のぎこちなさの中に、ふと、サクラさんへの敬意が垣間見える瞬間があった。観客は、失笑ではなく、健太の懸命な姿に、温かい声援を送った。
健太が必死に台本を読み上げる中、突然、宇宙ステーションの外で、激しい雷鳴が轟いた。ステーション全体が、激しく揺れる。その衝撃で、健太が操っていた人形が、まるでサクラさんの意志を持ったかのように、悲しい表情を浮かべ、力強く動き出した。健太は、人形の動きと、サクラさんの遺した台詞に呼応するように、自身の言葉で、源さんとサクラさんの純粋な愛、そして叶わなかった夢の切なさを、全身全霊で語り始めた。
「源さん、サクラさん…これは、愛の物語です! 雷鳴のように激しく、でも、決して離れることのない、二人の…」
健太のぎこちない口調は、次第に熱を帯び、観客は、健太の必死の形相と、人形の切ない動き、そして雷鳴が轟く宇宙の光景に、息を呑む。雷鳴は、サクラさんの声なき声のように響き渡り、源さんの長年の後悔と悲しみを、洗い流していくかのようだった。雷鳴が止み、静寂が訪れた時、健太は、サクラさんが抱いていたであろう、切なる想いを、渾身の力で叫んだ。 「サクラさん…あなたの愛は、この宇宙に、確かに、響いています!」
健太の語りが終わった時、会場は静寂に包まれた。やがて、静かに涙を流す者、嗚咽を漏らす者。健太は、源さんに歩み寄り、深々と頭を下げる。源さんは、健太の肩を叩き、静かに頷いた。窓の外には、雷鳴が去り、無数の星々がきらめいていた。健太の軽妙な語りと、ぎこちない人形の動きは、サクラさんの遺した「雷鳴の恋」という物語を、宇宙空間という壮大な舞台で、あまりにも切なく、そして美しく昇華させた。会場にいた誰もが、健太の「面白かった」ではなく、「魂が揺さぶられた」という読後感を持っていた。それは、宇宙という広大な孤独の中で、それでも懸命に愛を叫び続けた、人間の業と、それを静かに見守る星々の輝きに、観客一人一人が、自身の人生の尊さを重ね合わせた、深い感動だった。