潮騒の駒

窓の外は、もうすっかり夜だった。満潮が近づき、荒々しい波が、祖母が遺したこの古い洋館の石積みの基礎を激しく叩いていた。その音は、まるで館そのものが、押し寄せる波に耐えかねて、呻き声を上げているかのようだった。僕は、使い込まれたチェス盤を前に、息を詰めた。盤上の駒は、祖母が愛用していた、鈍く光る象牙製だ。幼い頃、祖母は、この駒たちと静かに語り合うように、僕にチェスを教えてくれた。彼女は、まるで盤上の駒たちが、それぞれに意志を持っているかのように、指し手を決めていた。その秘密めいた仕草が、今でも鮮明に蘇る。

夜が深まるにつれて、館には、不意に、奇妙な音が響き始めた。ギィ、と床板が軋む。風もないのに、カーテンが微かに揺れる。そして、潮の匂いとは明らかに違う、あの、生臭く、それでいてどこか腐敗したような匂いが、館の奥の、普段は人の気配もないような場所から、じわりじわりと染み込んできた。

「気のせいだ」

僕は、自分に言い聞かせた。古い館には、つきものだ。だが、それでも、チェス盤の駒から目が離せなかった。特に、黒のキングだ。それは、さっきまで、確かに、ここに置いたはずなのに。いつの間にか、盤上の、不自然に離れた場所へと、ほんの僅かに、しかし、確かな軌跡を辿って移動しているように見えた。

満潮がピークに達したのだろう。波の音は、もはや耳をつんざくような轟音に変わっていた。館全体が、その振動に、微かに、しかし確実に、軋んでいる。僕は、チェスに集中しようとした。しかし、部屋の隅、 alcove の奥に、人の形を模倣しているかのような、しかし、輪郭の曖昧な影が、ゆらゆらと揺らめいていた。それは、明確な姿ではなく、視界の端で蠢く、不快な気配だった。そして、その時、潮騒の轟音に掻き消されそうになりながら、耳の奥に、あの声が、囁いた。

「進め…キングを…」

それは、紛れもなく、祖母の声だった。だが、生前の、あの温かみのある声とは違い、どこか乾いた、物悲しい響きを帯びていた。チェス盤の駒が、再び、動いた。黒のキングが、ゆっくりと、しかし、確かな意志を持って、盤上を滑るように移動していく。まるで、僕の手を借りずに、誰かが、いや、何かが、駒を操っているかのようだ。僕は、自分の感覚が、急速に遠のいていくのを感じた。手足が、まるで自分のものではないような、虚ろな感覚。この部屋が、まるで、僕の知らない、別の空間へと変質していくような、そんな感覚に襲われた。

恐怖に駆られ、僕は、チェス盤をひっくり返そうとした。だが、盤は、びくともしなかった。まるで、床に、あるいは、この館の深淵に、根を張っているかのようだ。駒は、まるで意思を持っているかのように、盤に、しっかりと、固定されていた。外の波音は、さらに激しさを増し、館全体が、巨大な生き物のように、身悶えしているかのようだった。僕は、窓の外に目をやった。満潮の水面が、徐々に、しかし、着実に、洋館の窓ガラスに迫ってきていた。水面には、ぼんやりと、しかし、確かに、無数の手が、蠢いているのが見えた。それらは、ゆっくりと、しかし、確実な意志を持って、この洋館へと、近づいてきていた。そして、チェス盤の駒が、再び、動いた。黒のキングが、僕のキングの、すぐ隣に、王手のような位置へと、移動した。

もはや、抵抗する気力は、僕には残っていなかった。虚ろな目で、僕は、チェス盤を見つめた。黒のキングは、僕のキングのすぐ隣に、まるで、嘲笑うかのように、鎮座している。窓の外では、満潮の水が、床にまで、達し始めていた。あの、腐敗したような匂いが、部屋全体に、充満していた。背後からは、ゆっくりとした足音とも、水に引きずられる音ともつかない、不気味なものが、近づいてくる。僕は、悟った。この恐怖が、チェス盤の駒が、そして、窓の外から迫りくる「それ」が、祖母の遺した、終わることのない「ゲーム」の一部なのだと。それは、僕の日常に、いつの間にか、巧妙に組み込まれていた、怪異なのだと。僕は、ただ静かに、チェス盤の駒が、次に動くのを待つ。あるいは、この「ゲーム」の、新たな駒として、盤上に配置されることを。

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