役所のチューリップ
春爛漫。陽光は、淀んだ空気を幾分か浄化するかのように、古びた市役所の窓ガラスを照らしていた。市民課の窓口には、佐藤雅彦が座っている。彼の表情は、まるで長年使い込まれた石のように無感動だった。入口付近には、職員が持ち寄ったのであろう、寂しいチューリップの花束が飾られていた。その赤や黄の花々は、どこか不自然なほど鮮やかで、この場所の陰鬱さと相まって、異様な存在感を放っていた。
そこに、田中恵子がやってきた。息子の病状が悪化し、治療費が底をついていた。藁にもすがる思いで、彼女は役所に辿り着いたのだ。その瞳には、必死の希望と、それを手に入れるための冷たい計算がギラついていた。
「あの、すみません…」
恵子が切羽詰まった声で事情を説明し始める。しかし、佐藤の反応はマニュアル通りだった。「はい、次の方ー」という声にさえ、感情はこもらない。恵子の訴えは、彼の耳には単なるノイズに過ぎないかのようだった。
「申請には、〇〇という書類が必要になります」
「でも、もう時間がないんです!息子が…!」
「書類に不備があります」
佐藤は、恵子の顔を見ず、ただ指先で書類をなぞる。恵子の必死の訴えも、彼の無表情な顔の前では、虚しく響くだけだった。その時、窓辺に飾られたチューリップの花びらが一枚、床に落ちた。その花びらは、どこか血のように赤く、異様な艶を放っていた。
恵子は、諦めきれずに佐藤に詰め寄った。息子の命がかかっている。彼女は、震える手で懐から小さな包みを取り出した。それは、彼女が必死に貯めた現金と、キラキラと不思議な光を放つ「魔晶石」だった。
「これ…これでも、何とかならないでしょうか?」
恵子は、その包みを佐藤の机の上にそっと置いた。息子の病は特殊で、この魔晶石だけが唯一の治療法だと信じられているものだった。しかし、その輝きは、人の悪意を映し出すかのようでもあった。
佐藤は、一瞬、魔晶石の輝きに目を留めた。淀んだ瞳の奥に、醜い欲望が一瞬 flicker した。しかし、すぐに彼は表情を戻し、淡々と告げる。
「このような不正な申し出は、受け付けられません。正規の手続きをお取りください」
恵子は絶望した。その時、市民課の課長である鈴木一郎が通りかかった。
「課長!どうか、助けてください!」
恵子は、すがる思いで鈴木に詰め寄った。しかし、鈴木は鼻で笑うかのように答えた。
「規則ですから。私には関係ありません」
鈴木は佐藤にだけ聞こえるように、「不正な取引はしないように」とだけ言い残し、颯爽と立ち去った。恵子は、魔晶石を握りしめ、その場に崩れ落ちた。彼女の顔には、絶望と共に、佐藤と鈴木への激しい憎悪が浮かんでいた。
数日後。恵子の姿は、役所から消えた。佐藤は、いつものように無表情で窓口に座っている。床に落ちていたチューリップの花びらは、いつの間にか掃除されていた。
佐藤は、ふと机の引き出しを開けた。そこには、恵子が置いていった魔晶石が、まるでただの石ころのように、他の事務用品と一緒に無造作にしまわれていた。佐藤は、その魔晶石を手に取り、窓の外の、春の光にかざしてみた。石は鈍く光るだけだ。その光が、佐藤の指にまとわりつくように見え、彼の指先が、まるで石の冷たさに染まっていくかのようだ。
佐藤は、それを再び引き出しにしまい、次の市民を呼び込む。「はい、次の方ー」と、いつものように淡々とした声で。彼の口元に、微かに、しかし確かに、歪んだ笑みが浮かんだ。