消えゆくバス停の連絡帳

博物館の静寂は、古びた紙の匂いと、埃の粒子が光の帯の中で舞う様を孕んでいた。佐伯遥は、収蔵品の整理に没頭していた。指先が触れるのは、忘れ去られた時代の遺物。その中から、一枚のバスの切符と、煤けた連絡帳の束が姿を現した。それは、地図からも、人々の記憶からも、ほとんど消え去ったはずの、かつてのバス路線に関するものだった。連絡帳のページをめくるたび、そこに記された些細な日常の断片、短いメッセージが、まるで遠い昔の灯火のように、佐伯の心を静かに捉えていく。かつて確かに存在した時間の、微かな鼓動。それを、彼は指先でなぞっていた。

連絡帳に記された日付。その一つが、佐伯が幼少期を過ごした、今はもうない実家のあった地域と重なることに、彼はふと気づいた。地図をいくら調べても、そのバス停の痕跡は見当たらない。それは、まるで幻であったかのようだ。さらにページをめくると、見覚えのない筆跡で「佐伯遥へ、さよなら」と記された、最後のメッセージが目に飛び込んできた。胸の奥に、冷たいものが走る。それは、失われたものへの郷愁と、自身の過去への漠然とした不安を呼び覚ます、静かな波紋だった。あの頃、自分は何を失い、何から逃げていたのだろうか。風の音が、窓の外で、まるで問いかけるように響いた。

佐伯は、そのバス路線を最後に走らせていたという、物言わぬ古びたバスの運転手を探し当てた。彼は、街外れの寂れた車庫で、一台のバスと共に静かに佇んでいた。佐伯の問いに、運転手は言葉少なに、しかし訥々と語り始めた。そのバスは、単なる移動手段ではなかったのだと。「時間」そのものを運んでいたのだと。バス停は、人々が「過去」や「失われた時間」へと、そっと触れることのできる、風の囁きのような、特異点だったのだと。連絡帳は、そのバスに乗った者たちの、記憶の断片、あるいは心の置き場所だったのだと。運転手の目は、遠い過去を見つめているかのように、物悲しく、そして穏やかだった。

運転手は、佐伯が子供の頃、そのバスに乗って「未来」を見たことがあるのかもしれない、と示唆した。そして、連絡帳の最後のメッセージは、未来の自分への、あるいは過去の自分への、別れや警告として、佐伯自身が書き残したものだったのかもしれない、と。佐伯は、連絡帳を胸に、そのバス停があったという場所へと向かった。それは、もう何もない、ただ広大な原野がどこまでも静かに広がっている場所だった。バスも、人々の痕跡も、何も残されていなかった。ただ、風が吹き抜ける音だけが、どこまでも響いていた。空はどこまでも高く、雲はゆっくりと、その形を変えながら流れていく。その風景は、佐伯の心に、ある種の静寂をもたらした。

佐伯は、連絡帳をそっと胸に抱きしめた。バスも、連絡帳のメッセージも、すべては失われた。しかし、そこに確かに存在した人々の声、風の音、そしてあのバスのエンジン音。それらは、佐伯の記憶の奥底に、静かに、しかし確かに溶け込んでいく。広大な風景の中に、記憶の断片が、光のかけらのようにきらめいては消えていく。佐伯は、その静寂の中で、ただ立ち尽くす。それは、救いでも絶望でもなく、ただ、世界が、そして時間が、圧倒的な事実として、静かに存在し続けているという、詩的な認識であった。遠いバスの音のように、かすかに、そして永遠に響き続ける、静かな虚無感だけが、そこに、あった。

この記事をシェアする
このサイトについて