納戸のクイズ
週に一度、夫の健一さんが「君のためになると思って」と、家の中の納戸でクイズ大会を開きましょう、と提案してくれたのは、もうずいぶんと前のことになります。博識で、いつも私を温かく包み込んでくれる健一さんのことですから、その提案を素直に受け入れたのは、当然のことでした。
納戸のひんやりとした空気の中、健一さんは楽しそうにクイズを出題しました。それは、古今東西の文学作品から、歴史上の出来事、果ては日常の些細な知識にまで及びました。私が間違えるたびに、健一さんは優しく、しかし完璧すぎる解説を加えてくださいます。「これはね、陽子さん。こういう背景があって、こういう意味があるんだよ」。その明晰な頭脳には、いつも感嘆のしかありませんでした。ただ、時折、私の答えに自信がなくなって、少しだけ異を唱えようとすると、健一さんの表情が一瞬、硬くなるのを感じました。その度に、私は口を噤みました。健一さんに教え込まれることは、私を成長させてくれる、何よりの親切なのだと、そう信じていたのです。
しかし、いつからでしょうか。健一さんの解説に、以前のような温かさが薄れ、次第に厳しさが滲むようになったのは。間違えた際の言葉は、励ましというよりは、私の無知を静かに責める響きを帯びてくるようになりました。「陽子さん、これは基本的なことですよ」。そんな風に言われるたびに、私は胸が締め付けられるような思いでした。そして、クイズのテーマも、いつの間にか「陽子に知っておいてほしいこと」という名目で、健一さんの興味のある分野に限定されていくようになりました。私がふと、自分の好きな画家について尋ねても、健一さんは生返事をするばかり。そのうち、私は自分の興味を口にすることさえ、恐れるようになっていました。健一さんの機嫌を損ねてしまうのではないかと。
そんなある日、健一さんの幼馴染だという田中さんが、我が家を訪ねてきました。陽気で、どこか掴みどころのない雰囲気の男性でした。田中さんは、私たちのクイズ大会の話を聞くと、目を輝かせて「俺も混ぜてくれよ!」と、場を和ませるように言いました。健一さんは、私の顔色を窺うように、少し戸惑った表情を見せましたが、結局、田中さんも交えてクイズを続けることになりました。
田中さんは、陽子とは全く違うタイプでした。的外れな答えを言っても、悪びれる様子もなく、むしろ楽しんでいるかのようです。健一さんが、陽子に向けるような丁寧な解説を始めると、田中さんはそれを軽くいなすどころか、陽子の間違いを、健一さんの意図とは全く違う方向で面白がり、「いやー、健一のクイズは奥が深いな!」と、健一さんの「正しさ」を意図的に揺さぶるような発言を繰り返しました。健一さんは、田中さんに対して、陽子に向けるような厳しさを出すことができず、その苛立ちを隠そうともせず、顔を赤らめていました。その様子を見て、私はふと、健一さんの「優しさ」というのは、私だけに向けられる特別なものではなく、むしろ私を縛り付けるための、都合の良い道具に過ぎなかったのではないか、という疑念が、心の奥底で静かに芽生え始めたのです。
クイズ大会は、いつも通りの納戸で行われていました。健一さんが、いつものように私の間違いを厳しく指摘し、私が俯くのを見て、満足げな表情を浮かべようとした、まさにその瞬間でした。田中さんが、何気ない様子で口を開いたのです。「そういえば、このクイズ、昔健一が一人でやってたやつだよな? 俺も昔、健一に同じようなクイズ出されたことあるわ」。
その言葉は、まるで雷鳴のように私の頭の中に響き渡りました。混乱した私は、健一さんに詰め寄りました。「どういうことですか? 田中さんが仰っているのは…」。健一さんは、一瞬、動揺した表情を見せましたが、すぐにいつもの穏やかな口調に戻り、必死に説明しようとしました。「陽子さん、これは君のためを思って、僕が用意した特別なクイズなんだ。君がもっと成長できるように…」。しかし、その言葉は、もはや私の耳には届きませんでした。健一さんの顔が、私をコントロール下から失うことへの恐れで、歪んでいくのが見えました。そして、ついに、堪忍袋の緒が切れたかのように、感情を露わにしました。「君は僕がいないと何もできないんだ! このクイズでしか、君は成長できないんだ!」
健一さんの「善意」という名の仮面が、醜く剥がれ落ちた瞬間でした。
その夜、私は、健一さんが「陽子さんのために」と、大切に保管していた「納戸のクイズ」の過去の記録を見つけました。そこには、私がこの家に嫁いでくるよりもずっと前から、健一さんが様々な女性たちに対して、全く同じようなクイズを繰り返し行っていた記録が、克明に残されていたのです。そして、その記録の最後のページに、一枚のメモが挟まれていました。そこには、健一さんの、私に向けた言葉が綴られていました。「君に、僕だけが理解できる、僕だけの君になってほしかったんだ」。
私は、健一さんの「優しさ」がいかに歪んだ所有欲であったか、そして自分がその歪みに、自らの意思で身を投じていたのかを、ようやく悟りました。遠くへ行こうと、駅へと向かう私の背中に、健一さんの声が響きました。「どこへ行くんだ? クイズの続きをしよう」。
その言葉に、私の頭の中に、健一さんと過ごした日々の「善意」の断片が、次々とフラッシュバックしました。それらが、一瞬にして「支配」という、悍ましい真実に塗り替えられていくのを感じました。電車のホームで、健一さんが私の目の前に立ちはだかります。私は、彼の顔を静かに見つめ、そして、静かに微笑みました。「いいえ、もう結構です」。しかし、その微笑みは、健一さんへの拒絶の意思表示ではなく、自分自身を完全に諦めた、虚ろな、冷たい微笑みでした。
健一さんの「どこへ行くんだ? クイズの続きをしよう」という言葉が、今も耳から離れません。彼が用意してくれた「親切」という名の監獄から、私はもう逃れられないのかもしれません。彼の、私だけを理解できる、私だけの君になってほしいという願いは、歪んだ愛の形となって、私を永遠に縛り付けるのでしょう。冷たい不快感が、じわりと全身に広がっていきました。人を信じることの、なんと愚かなことか。それは、私自身の、あまりにも甘すぎる期待だったのかもしれません。