あくびをする映写機と、王様の剪定鋏
「黄昏(たそがれ)」という言葉を、私は広辞苑の重みとして記憶している。
語源は「誰(た)そ彼(かれ)」。夕暮れの薄暗がりで、相手の顔が見分けられない時間帯。すなわち、視覚情報における個体の識別が困難になる物理的現象を指す名詞である。
私はいつもの散歩道で、手元の辞書を撫でながらその定義を反芻していた。言葉とは、世界を固定するためのアンカーだ。もし定義が「顔が見分けられない」と定めているのならば、現実の方こそがそれに従順であるべきではないか。
そう考えた瞬間、私の視界の端から、世界の解像度が急速に低下した。
「おや」と呟こうとしたが、唇の感覚が曖昧だ。向こうから歩いてくる誰かの顔が溶け出し、呼応するように、私自身の輪郭もまた、定義通りに液状化していく。比喩ではない。これは現実の誤植だ。
認識のピントが完全に外れ、私は足元のマンホール——あるいはレンズの窪み——へと、音もなく滑り落ちていった。
目が覚めると、そこは未現像のフィルムでできた花畑だった。
セルロイド特有の酸っぱい匂いが鼻をつく。足元には、黒く透き通った帯状の葉が波打ち、その先端には「場面」という名の蕾がついている。ある蕾の中では少女が泣き、別の蕾の中では老人が笑っているが、どれもまだ光が当たっていないため、幽霊のように薄暗い。
「おい、そこのエキストラ。影を踏むな。露出が変わる」
頭上から降ってきた声に、私は首を巡らせた。
そこにいたのは、フィルムの切れ端を編んで作った王冠を被り、身の丈ほどもある巨大な銀色の鋏(はさみ)を持った男だった。彼は不機嫌そうに、伸びすぎた「沈黙」の茎をチョキンと切断したところだった。
「あなたは……?」
「質問は脚本にない。アドリブは禁止だ」
王様——と呼ぶべきだろうか——は、切り落とした「沈黙」を無造作に放り投げた。それは地面に落ちると、ドスンと重たい音を立てた。沈黙とは、音の欠如ではなく、質量を持った物体であるらしい。
「私の庭に何の用だ。ここは巨大な映写機のレンズの中。世界という映画がスクリーンに投影される直前の、最後の検問所だぞ」
「私はただ、黄昏の定義について考察していただけで……」
「考察? ハッ、これだから素人は困る」
王様は私をレンズ越しに覗き込むような仕草で、顔を近づけた。その瞳の奥で、シャッターが切られる音がした。
「お前の脚本は根腐れしているな。過去の回想シーンばかり長くて、未来への伏線という名の肥料が足りない。だから現在という茎がひょろひょろに痩せ細っているんだ。見ろ、感情の彩度も低すぎる。これでは観客がアクビをするぞ」
「根腐れ……それは園芸用語であり、人生の定義には不適切です」
私が抗議すると、王様はニヤリと笑い、ポケットからいくつかの「種」を取り出した。
「言葉の不完全さを嘆くなら、より正確な定義を植えてやろう。これは『字幕』の種だ」
王様がその黒い粒を私の足元に撒くと、土——ではなく粒子——の中から、即座に白い明朝体の文字が植物のように生えてきた。
『孤独』
そう書かれた葉が、私の膝まで伸びてくる。
「孤独とは、一人でいる状態のことです」と私は即座に定義を述べた。
「違うな」王様は鋏を鳴らした。「この世界での翻訳はこうだ」
字幕の葉が裏返る。そこにはこう書かれていた。
『空っぽの映写機が発する、乾いた駆動音』
その瞬間、私の胸の奥から感情が消え失せ、代わりにカララ、カララというリールの空回る音が響き始めた。寂しいのではない。ただ、機械的に空虚なのだ。言葉が書き換わったことで、私の内面の実装までもが変更されたのである。
「素晴らしいテイクだ」王様は満足げに頷いた。「だが、照明が気に入らんな。このシーンには夜は重すぎる」
王様は空を見上げた。そこにはインクを流したような夜空が広がっていたが、彼は躊躇なく鋏を空へと向けた。
「チョッキン」
巨大な鋏が、夜空という幕を切り裂いた。王様は切り取った「夜」を丸めて捨て、代わりに足元の籠から、鮮やかな「朝」を取り出して、空の裂け目に接ぎ木した。
バチッ、というスパーク音と共に、世界がジャンプカットした。
太陽が西から東へと逆再生で昇り、沈みかけていた月が空の彼方へ弾き飛ばされる。時間の連続性が物理的に切断され、無理やり糊付けされた感覚。私の胃袋が、存在しない遠心力で裏返りそうになる。
「な、何をしたんですか! 時間は不可逆な流れであり……」
「編集だよ」王様は平然と言った。「冗長な夜などカットすればいい。我々は意味のあるコマだけを繋いで生きている。お前の記憶だってそうだろ? 昨日食べた夕食の味と、初恋の記憶の間には、膨大な『何もしていない時間』のフィルムが捨てられているはずだ」
私は自分の手を見た。指先が、小刻みに明滅している。私という存在は、連続した肉体ではない。1秒間に24コマの静止画が、パラパラ漫画のように連続して表示されているだけの、錯覚の集合体なのかもしれない。
継ぎ接ぎだらけの空の下で、王様は再び鋏を構えた。
「さて、次はクライマックスだ。だが、お前の役はここで終わりだ」
「終わり? 待ってください、まだ物語の結末としての整合性が取れていません。起承転結の『結』がないままでは、作品として成立しない!」
私は声を張り上げた。だが、口から出た音は、私の意図とは裏腹なものだった。
「!いなしまりあ、はでままないが『結』の結転承起。んせまいれて取が性合整のてしと末結の語物だま、いさくだって待?りわ終」
逆再生。私の声は、テープを逆回しにしたような奇妙な音列となって空気に溶けた。
「はい、カット!」
王様の鋭い掛け声と共に、カチンコが鳴り響く。
その音を合図に、私の身体から奥行き(・・)が失われた。立体的な肉体が、急速に平坦なフィルムへと引き伸ばされていく。叫ぼうとした口は、セルロイド上の黒い染みとなり、伸ばした手はただの画像の焼き付きとなった。
視界が白く飛び、世界がホワイトアウトしていく。
最後に聞こえたのは、王様の鋏がチョキンと何かを断ち切る音と、上映の終わったリールが、誰もいない暗闇でカララ、カララと回り続ける、あの乾いた『孤独』の音だけだった。