鎮火証明申請
理由を記述するよう命じるその矩形の空虚は、古代の石板に刻まれた未解読の碑文さながらに、紙山透の思考を絡め取っていた。明滅を繰り返す蛍光灯の光は、デルフォイの神託のように明晰さを欠き、周期的に唸りを上げる複合機の稼働音は、プレートテクニクス理論が予言する地殻の緩慢なる軋轢を想起させた。それらオフィスという閉鎖宇宙を満たす定常的なノイズの交響曲の、その最弱音部を貫いて、紙山の鼓膜にだけは、遠いサイレンの幻聴が届き始めていた。それは都市という巨大な有機体が発する警告であり、あるいは、失われた何かを悼む哀歌のようでもあった。
彼は、まるで宇宙の法則に新たな一行を書き加えるかのように、ペンを執った。万年筆のペン先が紙の繊維をわずかに引き裂く微細な音。そこに刻まれたのは、システムの語彙には存在しないはずの二語だった。――鎮火のため。 その申請書が意味するのは、彼の内界、その形而上学的な領域で燃え盛る、名付けようのない劫火を鎮めるための、時間という名の聖域への退避であった。それは、プロメテウスが人類に与えた知性の火の末裔か、あるいはヘラクレイトスが看破した万物流転の根源たる純粋なエネルギーか。いずれにせよ、その炎は紙山の存在そのものを燃料とし、彼の魂を焦がし続けていたのだ。
申請書は、黒木のデスクという祭壇に供物として捧げられた。黒木は、システムの論理を司る祭司長であった。彼は紙片を一瞥し、まるで解剖台の上の異物を検分する外科医のように、冷徹な視線を走らせる。 「意味不明だ」 その声は、いかなる感情の振幅も含まない、純粋な論理の結晶体であった。 「黒木さん、これは……」 「証明なき事象は存在しない。それはシステムのバグであり、秩序に対する混沌の侵犯に他ならない。君の内面で何が起きているかは、このシステムにおいては観測不能なノイズだ」 「これは、自己の存在論的地平に関わる、火急の案件なのです。私の実存が、今まさに燃え落ちようとしている」 紙山の言葉は、異教の神に捧げる呪文のように、黒木の構築した意味の体系の外側を空しく滑り落ちていった。合理主義という名の堅牢な城壁の前で、詩的な真実はあまりにも無力であった。二人の間に横たわるのは、単なる見解の相違ではなく、世界認識の根源的な断絶、バベルの塔が崩壊して以来、人類を苛み続けるコミュニケーションの原罪そのものであった。
沈黙は、黒木によって破られた。彼の論理は、自らの正当性を証明するため、その刃を極限まで研ぎ澄ます。 「ならば、こうしよう。君の言う『火災』が事実であると仮定するならば、その鎮火もまた、客観的な事実として観測可能でなければならない。消防署から『鎮火証明書』を取得し、この申請書に添付して再提出したまえ」 無慈悲な宣告。それは、個人の内なる真実を、外部機関による公的な認証という名の十字架に磔にする行為に等しかった。魂の焼失は、官製のスタンプによってのみ、その存在を事後的に許可されるのだ。黒木の顔には、システムの完全性を守り抜いたという、一種の宗教的な法悦さえ浮かんでいるように見えた。
紙山は無言でオフィスを出た。彼の足は、しかし、消防署の方角へと向かうことはなかった。アスファルトの歩道を踏みしめながら、彼は自問する。証明とは、自己の内なる炎の裁量権を、裁定者たる他者に明け渡す隷属の儀式ではないのか。公的な印章は、混沌を秩序に組み伏せるための呪具であり、その実、魂の固有性を奪うための烙印ではないのか。 彼は懐から有給休暇申請書を取り出し、静かに、そして丁寧に引き裂いた。紙の断片は、冬の乾いた風に乗り、まるで灰色の蝶のように舞い上がって消えた。もはや休暇による一時的な避難は意味をなさない。彼は選択したのだ。鎮火不能なこの炎を抱えたまま、日常という名の終わりのない火災現場を歩き続けることを。 そのとき、紙山は悟った。この内なる炎は、もはや鎮火すべき厄災ではない。それは、あらゆる意味が剥奪された世界の暗闇を、たった一人で歩むための、唯一の灯火なのかもしれない。 彼の頭上で、先ほどから幻聴のように彼を苛んでいたサイレンの音が、今や現実の音として、明瞭に、そして永遠に鳴り響いていた。それは、終わりなき煉獄を告げる警鐘として。そして、混沌と共生する孤独な実存の誕生を祝福する、祝砲として。