ロフトの窓辺、揺れる機関車

週末の午後は、いつもこうして静かに過ぎていく。佐々木悠馬は、築古マンションの最上階、ロフトの窓辺に腰を下ろし、眼下に広がる自作の鉄道模型を眺めていた。細部にまでこだわった街並み、点々と灯る小さな明かり、そしてその中心を縫うように走る精巧な模型の列車。それは悠馬にとって、現実世界の喧騒から隔絶された、唯一安らぎを得られる聖域だった。だが、その緻密な世界に目を凝らすほどに、現実の自分との隔たりが、ひどく冷たい水のように胸を浸してくる。窓の外では、人々が忙しなく行き交い、信号は無関心に赤と青を繰り返す。あれこそが「普通」という名の、悠馬が決して足を踏み入れることのできない、遠い世界の日常だった。模型に囲まれたこの空間は、彼の孤独を映し出す鏡であり、満たされることのない空虚さを際立たせるだけだった。

不意に、ドアベルが鳴った。こんな時間に誰だろう、と訝しみながらドアを開けると、そこに立っていたのは、伊藤健一だった。かつて鉄道模型界で名を馳せ、悠馬が心底憧れた先輩であり、今は疎遠になっている人物だ。伊藤は悠馬の部屋に上がり込むと、まっすぐ模型のジオラマへと視線を向けた。その目は、模型の精巧さを讃えているようでもあり、同時に、悠馬の未熟さを静かに見透かしているようでもあった。「へえ、ずいぶんと作り込んだじゃないか」伊藤の声は、いつものようにゆったりとしていたが、その響きには、悠馬の劣等感を静かに、しかし確実に刺激する響きがあった。伊藤がかつて成し遂げた数々の偉業と、今の自分の平凡さ。その対比が、悠馬の胸の内に、冷たく、鋭い刃物のような劣等感を広げていった。

伊藤は、ジオラマの中を歩くように、ゆっくりと模型を眺め続けた。そして、ふと足を止めた。「この橋、惜しいな」

「…橋、ですか?」悠馬の声は、かすかに震えていた。長年かけて作り上げた、自慢の橋だった。どこが惜しいというのだろう。

「ああ。君の腕なら、もっと、こう…」伊藤は指先で空中に何かを描くように動かし、「ただ、精巧に再現するだけじゃ、魂が宿らない。ここに、君自身の『何か』が足りないんだ」

その言葉は、悠馬が長年かけて築き上げてきた世界への、穏やかながらも、核心を突く問いかけだった。悠馬は、伊藤の指摘に反発したい気持ちと、その的確さに動揺する気持ちの間で揺れ動いた。かつてのような師弟関係は、もうとうに失われている。今、二人の間にあるのは、互いの才能を認め合いながらも、埋めようのない隔たりと、嫉妬にも似た複雑な感情だけだった。

沈黙を破ったのは、伊藤だった。「俺も、昔は君と同じだったよ」

伊藤は、自分が模型に没頭していた頃の話を語り始めた。それは、情熱と、そしてそれを失った苦悩に満ちた、どこか寂しげな物語だった。彼は、かつて作った、ある特別な模型について語った。「あの模型は、俺の全てだった。だが、ある時、全てを失ったんだ。今でも、部屋の隅に埃を被って置いてあるよ」

その言葉の端々に、悠馬は、自分が抱える劣等感の根源、そして伊藤が抱えていたであろう「失われた情熱」の影を、自然と感じ取っていた。それは、他人の言葉ではなく、自分自身の心の奥底から響いてくるような、静かな共感だった。伊藤の語る物語は、悠馬の孤独を癒すものではなかったが、少なくとも、自分だけが苦しんでいるのではないという、かすかな慰めを与えてくれた。

伊藤が帰った後、悠馬は一人、ロフトの窓辺に立った。窓の外には、茜色に染まり始めた夕暮れの街並みが広がっていた。それまで見えていた雑踏が、今は、どこか温かな光を帯びて見える。伊藤の指摘した「惜しい点」。それは、もはや欠陥ではなく、自分だけの「味」なのだと、悠馬は思った。伊藤の偉業に追いつくことではなく、自分自身の道を、不完全なままで歩んでいくこと。その静かな肯定が、悠馬の心を温かく満たしていった。窓に映る自分の姿は、まだ少し頼りないが、その瞳には、明日へ向かう確かな光が宿っていた。それは、完全な救済ではない。しかし、それでも、生きていくことへの、ささやかな祈りのような決意だった。

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