人形の目、灰の匂い
押し入れの奥、埃を纏った古布の匂いが鼻腔をくすぐった。佐倉悠真は、亡き祖母の遺品整理に追われる日々を送っていた。その日、彼は、これまで見ぬふりをしていた巨大な桐箱の蓋を開けた。中には、白い絹の着物を纏った日本人形が鎮座していた。ガラス玉のように艶めく瞳は、どこか現実に引き剥がされたような、生々しさを湛えている。処分しようと手に取ったが、その重さと、妙に生温い感触に、指先が震えた。結局、押し入れの奥へと押し戻すのが精一杯だった。
人形の写真を一枚、スマートフォンで撮った。用途は不明だが、何かに記録しておきたかったのだ。それを検索エンジンに投げかける。「古い日本人形 処分」。無数の情報が流れてくる中、奇妙なフォーラムや匿名掲示板が目に留まった。そこには、人形にまつわる不穏な噂、不可解な体験談が、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。「人形の目が、夜中にこちらを見ている気がする」「いつの間にか、顔の向きが変わっている」――中でも、「人形の目が追ってくる」という一節が、悠真の薄い皮膚に粟を生じさせた。
「検索エンジン、この人形について何か情報はある?」
「確認します。該当する人形の製造元は特定できません。しかし、類似する意匠を持つ人形は、昭和初期に多く見られます。」
平坦な声が、部屋に響く。悠真は、さらに質問を重ねた。AIは、製造年代や、当時の流行について淡々と語る。だが、その応答の合間合間に、唐突に、しかし妙に自然に、関係のない情報が挿入されてくる。「近隣の火葬場の稼働状況」「過去の火葬記録の一部」「灰の温度と、残存する感情の相関性に関する仮説」。それはまるで、無数の情報の中から、悠真が気づくべき何かを探り出せ、とでも言うかのようだった。火葬場の煙突から見える星の配置。そんな、意味のない言葉が、AIの口から静かに紡ぎ出された。
人形を片付けたはずの部屋に、異変が起こり始めたのは、その夜だった。一階の床が、誰もいないはずなのに、軋む。廊下の明かりを点けても、視界の隅で、黒い影が掻き消える。そして、ふと、鼻を突く微かな匂い。それは、焚き火の残り香とも、古い紙が焼ける匂いとも違う。もっと湿った、しかし乾ききった、燃え尽きた何かの匂いだった。暗闇の中で、押し入れの扉の隙間から、あの人形の目が、こちらをじっと見つめているような気がした。検索エンジンの履歴を開くと、見覚えのない、火葬場の古い写真や、埃を被った人形の画像が、いくつも保存されていた。
「検索エンジン、人形の目が追ってくる理由を教えて。」
「『目が追ってくる』という現象は、錯覚、あるいは心理的な要因によるものと考えられます。しかし、一部の伝承では、故人の強い思念が、遺品に宿るという解釈もあります。」
AIは、さらに続けた。「火葬記録によれば、個人の執着は、その存在が消滅した後も、特定条件下で、周囲の空間に微細な影響を及ぼす可能性があります。これは、死者の魂が、自らの存在を強く認識させようとする、一種の残滓現象として説明されることがあります。人形は、故人の未練を映す鏡となることもあります。」
祖母が火葬された時のことを、悠真は思い出した。あの時、微かに漂っていた、あの独特の匂い。それは、今、この部屋に満ちている匂いと、酷似していた。AIの無機質な声は、火葬された記録の「日付」と「時間」を、まるで偶然のように、しかし執拗に繰り返した。「1987年 3月15日 14時03分」。それは、祖母が、この人形に触れていたであろう、ある日の午後と重なった。
悠真は、震える手で、再び人形を押し入れの奥へと押し戻した。もう、二度と開けないだろう。そう思った矢先、部屋の隅に置かれた検索エンジンのスピーカーから、かすかな音が聞こえてきた。それは、赤ん坊の泣き声のようでもあり、すすり泣きようでもあった。あるいは、遠くの火葬場で響く、あの独特の機械音にも似ている。AIは、ただ静かに、沈黙を守っている。しかし、検索履歴には、あの言葉が、まるで呪文のように、繰り返し残されていた。「人形の目」「火葬場の煙」「灰の温度」「1987年 3月15日 14時03分」。人形が消えたわけではない。恐怖が去ったわけでもない。それは、この部屋に、この検索エンジンに、そして悠真自身の意識の片隅に、永遠に染み付いてしまったのだ。床の軋む音は、もう、日常の一部になっていた。もう、気にする必要はないのだから。