サラダと雨と、そして飛行機

サラダの皿が、目の前に置かれた。レタスの緑、トマトの赤。そして、見慣れぬ紫色の野菜。健一は、フォークを握りしめ、窓の外を見た。雨だ。激しく、叩きつけるような雨。数日前、アキラと別れた。あの時の記憶が、どうしても曖昧なのだ。なぜ、こんなにも、はっきりとしない。神経質な指先が、震えた。

「…いただきます」

口にしたのは、サラダ。いつもと同じ、あのカフェのサラダ。だが、今日のドレッシングは、何かが違う。酸味が強すぎる。いや、もっと、こう…表現しがたい違和感。早口で、ウェイトレスを呼んだ。

「すみません、あの、このドレッシング、いつもと違う気がするんですが…」

ウェイトレスは、穏やかな微笑みを浮かべた。その笑顔は、いつもと変わらない。だが、その瞳の奥に、何かが隠されているような気がした。

「いいえ、お客様。いつもと同じものでございます」

丁寧で、落ち着いた声。健一は、納得できなかった。だが、それ以上、食い下がることはできなかった。いや、できなかった、というより、できなかったのだ。なぜだ。

アキラ。そう、アキラと別れたのだ。数日前。空港で。飛行機に乗って、遠い国へ旅立っていった。あの時、アキラは言った。「必ず、また会おう」。健一も、そう答えたはずだ。「ああ、またな」。だが、その時の光景が、雨音のように、ぼやけている。アキラの最後の言葉も、風に攫われたように、聞き取れない。この、曖昧さが、健一を苛む。このカフェに来たのは、その曖昧さを、少しでも晴らしたかったからだ。このサラダの、この味を、記憶の断片と結びつけたかった。この、雨の音を、あの時の記憶へと繋ぎ止めたかった。

フォークが、紫色の野菜を拾い上げた。鮮やかな、しかし、どこか不気味な紫色。それは、レタスでも、トマトでもない。見慣れない、その野菜。健一は、それを口に運ぶ前に、ウェイトレスに尋ねた。

「あの…この、紫色の野菜は何ですか?」

ウェイトレスは、一瞬、間を置いた。そして、静かに、しかし、はっきりと答えた。

「それは…失われた記憶の、一片でございます」

失われた記憶? 健一の心臓が、激しく脈打った。目の前のサラダ。窓の外の雨。そして、アキラの飛行機。それらが、一気に、頭の中で渦を巻いた。失われた記憶。なぜ、サラダに、そんなものが。

健一は、震える手で、その紫色の野菜を口に運んだ。かじった瞬間、衝撃が走った。脳裏に、鮮烈な光景がフラッシュバックした。空港ではない。そこは、病院のベッドの上だった。アキラは、もう、旅立つ準備などしていなかった。痩せ細った、痛々しい姿。健一は、アキラに別れを告げているのではない。アキラの、最期の言葉を聞いていたのだ。「健一…頼む…」。その声は、雨音に紛れてはいなかった。窓を叩く、激しい雨音だった。そして、彼が「サラダ」と思い込んでいたものは、医療食の一部だった。そこに、「記憶草」が混ぜられていた。「記憶草」。それは、悲しみや苦しみを和らげ、都合の良いように記憶を書き換える、禁断の薬草。飛行機に乗ったのは、アキラではない。健一自身だ。アキラを失った、耐え難い悲しみから逃れるために。現実から目を背けるために。健一は、このカフェで、ウェイトレスに「記憶草」を混ぜた「サラダ」を、何度も注文していたのだ。窓の外は、激しい雨が、降り続いていた。まるで、健一の流す涙のように。

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