言葉の迷宮、電子の檻

雨粒が窓ガラスを叩く音だけが、この部屋の静寂を破っていた。水無月陽菜は、キーボードの埃をそっと拭きながら、指先でその冷たさを確かめる。SNS、その広大な海原に、彼女は「月影」として身を投げていた。紡ぎ出す詩は、彼女の内なる世界そのもの。繊細な感情の襞、言葉にならない痛みが、匿名という名のヴェール越しに、多くの人々の魂を震わせた。現実世界での陽菜は、俯きがちに歩く、気配を消すような存在だった。どもり、声は小さく、誰かの視線にすら怯える。そんな彼女にとって、「月影」とは、ようやく息ができる、唯一の場所だった。そして、その「月影」を、現実の世界へと引き上げようとしてくれているのが、幼馴染の橘隼人だった。彼の明るさは、陽菜の閉じた世界に差し込む一条の光。彼の熱意は、電子書籍化という、かつては夢物語だった現実を、着実に形にしつつあった。出版社の担当者との打ち合わせも、隼人が間に入ってくれるおかげで、滞りなく進んでいる。陽菜は、初めて、自分の言葉が、誰かの役に立つかもしれない、という淡い希望を抱き始めていた。それは、まるで、硬い蕾が、春の訪れを予感して、ほんの少しだけ、その色を滲ませたような、か弱くも確かな兆しだった。

電子書籍の発売日が近づくにつれ、陽菜の胸に、小さな、しかし無視できない違和感が芽生え始めた。SNSのコメント欄に、見慣れない詩が、ぽつりぽつりと投稿されるようになったのだ。「月影」の詩に、驚くほど似ている。いや、似ているというよりは、まるで模倣されているかのようだった。言葉遣い、リズム、そしてテーマ。表面的な技巧は、陽菜のものとは似ても似つかないほど稚拙だったが、それでも、その底流には、「月影」の詩が持つ、ある種の感触があった。そして、何よりも陽菜を不安にさせたのは、その模倣詩の中に、陽菜自身しか知り得ないはずの、極めて個人的で、隠された感情の断片が、不意に、しかし不気味に紛れ込んでいることだった。それは、まるで、彼女の心の奥底を覗き見られ、それを嘲笑うかのように、言葉にされてしまったかのようだった。陽菜がその不安を隼人に打ち明けると、彼はいつものように朗らかに笑い、優しく言った。「大丈夫だよ、陽菜。きっと、君の言葉に憧れて、真似しようとしている人がいるだけさ。荒らしみたいなものだよ。気にしない、気にしない。」その言葉は、確かに陽菜の不安を和らげた。けれど、心の片隅に、氷の破片のような冷たさが、静かに残った。

電子書籍は、発売された。狙い通り、それなりの反響があった。SNSには、陽菜の詩を称賛する声が溢れ、陽菜は、一瞬、現実世界での自己肯定感の低さから解放されたような気さえした。しかし、その喜びは、すぐに、模倣犯への不安と、そして、隼人への、言葉にならない不信感に掻き消されてしまった。隼人は、陽菜の才能を世に出すことに熱心だった。その熱意は、時に、陽菜の心を温かく包み込んだ。だが、最近、隼人が出版社とのやり取りの中で、陽菜に言った言葉が、陽菜の脳裏にこびりついて離れなかった。「陽菜の詩は、素晴らしいんだけど、もう少し、商業的に受け入れられるように、この部分を修正した方がいいんじゃないかな。もっと、多くの人が共感できるような、普遍的なテーマを前面に出すとかさ。」陽菜が、最も大切にしている、個人的な感情の吐露。それは、彼女が、誰にも見せられない、傷ついた魂そのものだった。それを「修正」する?まるで、彼女の魂を、商品として、価値を最大化するために、加工しようとしているかのようだ。彼女の詩は、隼人にとって、魂の叫びではなく、ただの「素材」に過ぎないのだろうか。疑念は、水面に広がる油のように、静かに、しかし確実に、陽菜の心を蝕んでいった。

ある夜、眠れない陽菜は、自室のパソコンを開き、模倣犯の投稿を、さらに詳しく調べることにした。IPアドレスを追跡し、その痕跡を辿る。それは、まるで、暗闇の中を手探りで進むような、不安な作業だった。そして、ついに、その時が来た。驚愕すべき事実に、陽菜は息を詰めた。模倣犯の投稿IPアドレス。それが、驚くべきことに、隼人の自宅のIPアドレスと、完全に一致したのだ。陽菜の心臓が、激しく、不規則なリズムで脈打つ。震える指先で、隼人のPCの履歴を辿る。そこにあったのは、陽菜の詩を「素材」として、より大衆受けするように、「加工」し、それを「月影」の詩としてSNSに投稿していた、無数の痕跡だった。そして、さらに恐ろしいことに、その「加工」された詩を、あたかも新しい才能であるかのように、出版社の担当者に売り込んでいた、その証拠も、克明に残されていた。陽菜は、ただ、その画面を、呆然と見つめることしかできなかった。

陽菜は、隼人のPCの画面を、そのままに、静かに自室を出た。隼人が、陽菜の才能を世に出すために、と、いつも言っていた言葉が、空虚に響く。彼は、陽菜のためを思って、そうしたのだろうか。それとも、彼女の才能を、自分の手でコントロールしたいという、歪んだ承認欲求と、支配欲を満たすために、彼女の言葉を盗み、加工し、そして、あたかも「新しい才能」であるかのように、世に送り出そうとしていたのだろうか。陽菜の電子書籍は、彼女自身ではなく、隼人が「プロデュース」した、「月影」の詩集として、世に放たれることになる。それは、陽菜の魂を封じ込めた、隼人の歪んだ愛情という名の、牢獄となるのだ。心地よい文章の裏に隠された、人間の承認欲求と支配欲という名の棘。読者は、善意という名の欺瞞に覆い尽くされ、信じていたものが粉々に砕け散る感覚を味わう。後に残るのは、他者を信じることの愚かさと、善意とは一体何なのかという根源的な問い、そして、言葉という名の迷宮に迷い込んだような、冷たく湿った不快感だけである。

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