鼓膜としての宇宙、あるいは目撃される沈黙
宇宙船「バチ」が世界の縁(リム)に到達したとき、その空間は悲鳴を上げていた。
いや、正確には悲鳴を上げる直前の、息を飲み込んだ瞬間の喉の震えに似ていたかもしれない。船外モニターに映し出されているのは、私たちが慣れ親しんだ星空のベルベットではない。そこには、なめされたばかりの動物の革のような、極限まで張り詰められた「絶対無」が広がっていた。あまりの張力に、視界そのものが歪み、遠近感がゲル状に溶け合っている。
船体のきしみ音は、老婆の歯ぎしりのようだ。
「乾燥しすぎているね」
調律師Aは、船窓に張り付いて、愛おしそうにその不気味な虚空を眺めていた。彼は宇宙服のヘルメットを小脇に抱え、まるで庭木の手入れでもするかのような気安さで言った。
「ご覧、この宇宙の皮(スキン)は、水分が足りていない。ピッチが上ずって、ヒステリックな倍音を隠し持っている。少し叩き直して、湿り気を与えてやらなきゃ」
私は手元の「定義辞典」を強く握りしめた。ページが手汗で波打っている。記録官としての私の責務は、現象が言葉の檻の中に正しく収まっているかを監視することだ。だが、この場所に来てからというもの、言葉たちは檻の隙間から液状化して逃げ出そうとしている。
「A、規定を確認してください。本任務は『探査』です。空間への物理的干渉、ましてや打撃など許可されていません」
私は努めて事務的な口調を作った。声が裏返らないようにするだけで精一杯だった。
「やれやれ、これだから散文的な人間は困る」
Aは重力制御装置を蹴飛ばした。彼は常々、重力のことを『地球のわがまま』と呼んで軽蔑している。
「いいかい、B君。『探査(たんさ)』という言葉の語源を考えたことは? それは世界の『端(たん)』を『鎖(さ)』すことだ。解れかけた宇宙の綻びを縫い合わせる行為だよ。そして、その裁縫針が立てる音こそが、真理を震わせる。つまり、探査とは音叉(おんさ)を鳴らすことと同義なんだよ。音韻論的にも証明されている」
「そんな定義は、どの辞書にも載っていません!」
「載っていないなら、辞書の方が間違っているのさ。物理法則なんてものは、たまたまこの銀河で流行っているだけの、退屈な四拍子の民謡に過ぎないんだから」
Aはウィンクを一つ投げると、巨大なバチ――本物の木材ではなく、概念合金で鋳造された打撃棒――を担いでエアロックへと向かった。
私は慌てて後を追った。止めなければならない。真空でバチを振るったところで、音など鳴るはずがないのだ。それは無意味な徒労であり、私の報告書における「ナンセンス」の項目を増やすだけの行為だ。
しかし、エアロックが開いた瞬間、私の思考は停止した。
そこには「無」があった。黒色ですらない、色彩が成立する以前の、暴力的なまでの空白。触れれば指先から存在そのものが吸い出されてしまいそうな、鋭利な欠落が、船の外殻ギリギリまで迫っていた。
Aはその「絶対無」の前に、指揮者のように立っていた。
「神様はフケ性でね」Aは背中で語った。「星なんてものは、神様の肩から落ちたフケみたいなもんだ。美しいと崇めるのもいいが、たまには払ってやらないと、宇宙が痒がって仕方がない」
彼は大きく振りかぶった。
「真空では音は伝播しません!」私は叫んだ。「媒体がないのです! それは科学的真実です!」
「真実? ああ、その堅苦しいリズムのことかい? なら、少しばかりシンコペーションさせてやろう」
Aがバチを振り下ろした。
その瞬間、世界が裏返った。
音はしなかった。空気がないのだから、当然だ。鼓膜が揺れることはなかった。
その代わり、私の網膜が、視神経が、脳の視覚野が、直接「殴打」された。
視界のすべてを埋め尽くすように、巨大な、あまりにも巨大な明朝体の文字が出現したのだ。
『ドン』
それは文字だった。だが、質量を持っていた。黒々としたインクの塊のようなその文字は、圧倒的な物理的実存として宇宙空間に鎮座し、周囲の「絶対無」をねじ伏せていた。文字の「はらい」の部分が、鋭い鎌のように空間を切り裂いている。
私は呼吸を忘れて、その光景に見入った。音の視覚化? 共感覚の暴走? いや、違う。ここでは「意味」が「物理」を凌駕しているのだ。
慌てて手元の「定義辞典」を開く。指が震えてページが破けそうだ。「沈黙」の項目を探す。
そこにあったはずの文字組みが、見る見るうちに崩れ落ちていく。活字が紙の上を這い回り、新たな配列へと組み変わる。
【沈黙(ちんもく):視覚的質量を伴う轟音のこと。または、語られなかった言葉の死体】
「……なんということだ」
私は呻いた。Aは満足げに、その巨大な『ドン』という文字の残骸を見上げている。文字はゆっくりとひび割れ、砕け散り始めていた。黒い破片がキラキラと輝きながら四散していく。
「ご覧、綺麗だろう」
Aが指差す先で、『ドン』の破片たちは星屑となり、漆黒の五線譜を描き始めた。オリオン座がト音記号のように歪み、カシオペア座がスタッカートのように跳ねている。
「世界はいつだって、音楽になりたがっているんだ」
私は報告書を書かなければならなかった。この異常事態を、論理的な言葉で記録し、本部に伝えなければならない。それが私の存在証明だ。
私はペンを走らせた。
『本日、未明、宇宙の皮膜に対し、打撃による干渉が行われ……』
だが、ペン先から滴り落ちたのは、インクではなかった。
ぽたり、と落ちた黒い液体は、紙の上で「♪」の形に凝固した。
驚いてペンを離すと、私の指先もまた、輪郭を失い始めていた。人差し指が滑らかな曲線を描き、八分音符の尾のように伸びていく。痛みはない。ただ、ひどく懐かしい、子守唄を聞いているときのような心地よい眠気が、全身を包み込んでいく。
「ああ、君もようやく、メロディの一部になれたね」
Aの声が、遠くで和音のように響いた。
私は何かを言い返そうとしたが、口から出たのは言葉ではなく、透明なシャボン玉のような休符だけだった。視界の端で、私の「定義辞典」がパタパタと翼のように羽ばたき、重力という名のわがままな鎖をちぎって、星空の五線譜へと飛んでいくのが見えた。
世界はもう、意味を必要としていない。ただ、美しい韻律があれば、それでいいのだ。
私は目を閉じる。瞼の裏に、巨大な『ドン』の残響が、いつまでも鮮やかに焼き付いていた。