白蛇の鍵
弟、五十嵐悟の遺品整理の依頼は、奇妙な形で五十嵐健太の元に舞い込んだ。健太は元新聞記者、今はフリーランスの調査員だ。悟は数年前に原因不明の病で世を去ったとされている。健太はその死に納得していなかった。遺品の中から、奇妙な模様が刻まれた古い鍵と、数枚のメモが見つかる。「白蛇」「隠された場所」「真実」。断片的な言葉が、健太の刑事(デカ)としての勘を刺激した。悟の特異な才能――社会の不条理を察知し、隠された真実を直感的に見抜く力――が、この奇妙な鍵と繋がっている。それは、やがて健太を、この街の澱んだ過去へと引きずり込むことになる。
健太は独自に調査を開始した。悟が失踪直前、この街の古い工場跡地周辺で奇妙な現象を目撃していたという証言を得る。かつて、その工場跡地には「白蛇伝説」と呼ばれる都市伝説が存在した。地元の図書館司書、町田恵子に接触する。彼女は静かに、しかし確信を持って語った。「あの工場跡地では、昔、原因不明の事故が頻発し、住民が不可解な病に苦しんでいました。誰もが、あの工場を忌避していました」
弟が残した鍵。健太はその鍵が、工場跡地にある古い倉庫の扉を開けるためのものだと気づく。倉庫の扉は重く軋みながら開いた。内部は埃と腐臭に満ちていた。その中央に、悟が隠していた研究資料と、工場で実際に起こっていた非人道的な実験の記録があった。佐伯義男。かつてこの街を牛耳った男が経営していた工場。違法な産業廃棄物処理によって発生した特殊な汚染物質。それによる住民の健康被害。全てが隠蔽されていた。さらに、その汚染物質を逆手に取った人体実験。社会的に「不要」とされた人間を対象に、特定の遺伝子操作を施し、汚染物質への適応能力や、それを兵器転用する可能性を探る。それは、現代社会が抱える倫理観を根底から揺るがす、冷徹な記録だった。悟は、この真実を突き止めようとしていたのだ。
「白蛇」。それは、汚染物質によって変異した、あるいは汚染物質を媒介とした未知の病原体か。それとも、この隠蔽工作を仕切る組織の隠語か。健太の思考は、弟の残した断片的な言葉と、目の前の記録とが結びつくのを待っていた。佐伯義男は、健太の調査に気づいていた。証拠隠滅を図ろうとする動きが水面下で加速する。健太は町田の協力を得て、倉庫の記録を外部にリークしようと試みる。しかし、佐伯のメディアへの露骨な圧力と、警察への影響力行使は、報道機関を沈黙させた。警察も、動こうとしなかった。健太は佐伯から直接的な脅迫を受けた。「弟の死も、この隠蔽工作の一環だった可能性が濃厚になる」という冷たい事実が、健太の胸を締め付けた。
弟が最後に残したメモ。そこには、工場跡地の地下にある、さらに隠された場所への指示が記されていた。健太は、その指示に従い、地下へと降りていく。そこには、過去の犠牲者たちの記録と、汚染物質のサンプルが残されていた。健太は、これらの証拠をインターネット上に公開した。しかし、直ちに報道されることはなく、一部のネットユーザーの間に、かすかな波紋を広げるに留まった。佐伯義男は、表向きはクリーンなイメージを保ち続け、社会システムは依然として機能不全のままである。弟の「鍵」は、真実への扉を開けた。しかし、社会全体を救うことはできなかった。健太は、静かに、しかし確かな怒りをもって、この構造的な闇を告発し続けることを決意する。その時、彼の元に、匿名の協力者からの連絡が入る兆候が見られた。
健太は、弟が遺した鍵を握りしめていた。それは、個人の真実への扉を開けた。しかし、集団的無関心と情報統制という名の分厚い壁は、依然としてそこにあった。社会の「構造悪」は、弟のような個人の犠牲の上に成り立っている。その冷徹な現実が、健太の眼前に横たわる。しかし、彼の胸に宿る静かな怒りは、新たな告発への序章に過ぎない。この告発は、いずれ、この沈黙した街に、静かな嵐を巻き起こすだろう。それは、誰にも止められない。