真夜中のシエスタ ~眠れない兵士と、眠らせない夢~

へへっ、まいどありー!深夜のコンビニ、佐藤健一、本日も絶好調であります! こんな時間にコーヒーとサンドイッチを買いに来るなんて、もしかして、健一の顔を見て安眠できないとか? いやいや、それは光栄すぎる! それとも、隣の部屋の住人がイビキかきすぎ? うーん、それは困ったもんだ! そうだ、陽子さんのために、特製安眠枕でも開発しましょうかね! 中に、リラックス効果のあるラベンダーでも詰め込んで……

「……」

隣のアパートに住む田中陽子さんは、いつものように、健一の独り言を静かに聞き流しながら、小さく会釈するだけだ。彼女がいつも買うのは、ホットコーヒーと、ハムチーズのサンドイッチ。健一は、陽子さんのために、温かいコーヒーをカップに注ぎながら、彼女が眠れないのだろうかと、勝手に想像しては、店内で一人コントを繰り広げる。

「いやー、まいったまいった! まさか、俺の顔で眠れないなんて、光栄の極み! まあ、俺の顔は、見れば見るほど味が出る、熟成チーズみたいなもんですからね! へへっ!」

陽子さんは、そんな健一の軽口にも、ただ静かに微笑むだけだった。その微笑みは、どこか遠い場所を見ているかのようでもあった。

ある日、陽子さんがいつものようにコーヒーを買う際、健一は、彼女の左手の甲に、古く、やや不自然な形の小さな傷跡があることに気づいた。それは、まるで、何か硬いものに強くぶつけたような、そんな痕だった。

「なんか、元気ないっすね、陽子さん? 顔色も優れないようで」

健一は、陽子さんが何か悩みを抱えていることを察した。彼女が時折、遠くを見つめ、虚ろな表情を浮かべる。まるで、何かを必死に思い出そうとしているかのような、微かな眉間の皺。

「……大丈夫です」

陽子さんの声は、いつもよりさらに小さく聞こえた。健一は、いつもの調子で「俺でよければ、いつでも聞きますぜ! 筋トレでストレス発散とかどうです? この腕っぷし、見ます?」と明るく励ますが、陽子さんの反応はいつもと変わらず、静かだった。健一は、自分の軽口が、彼女の心を閉ざしてしまっているのではないかと、ほんの少しだけ、いつもと違う不安を感じた。

数日後、健一は、陽子さんのアパートの前で、彼女が夜中にベランダで一人、何かをじっと見つめているのを目撃した。それは、遠くの空、あるいは街の灯りではなく、もっと遠い、遥か彼方の、まるで戦場のような風景を、彼女の脳裏に焼き付けているかのように見えた。

健一は、陽子さんに声をかけようとした。だが、その時、彼女の肩が小さく震えていることに気づく。さらに、陽子さんがコンビニで買うコーヒーの銘柄が、ある時期から急に変わったことに気づいた。以前は甘めのラテだったのが、今はブラックコーヒー。そして、陽子さんが時折、夜空を見上げながら、まるで誰かに語りかけるように、小さな声で何かを呟いていることに気づいた。

「……まだ、帰らないの……?」

「……もう、疲れた……」

健一は、その呟きが、自分の耳に届いているのかいないのか、確信が持てない。だが、その声の響きに、言いようのない切なさを感じ、自分の「勘違い」に、ほんの少しだけ気づき始めていた。彼女の静かな微笑みの陰に、どれほどの孤独と苦しみが隠されているのか、想像もしていなかった。

ある夜、陽子さんはいつにも増してやつれた様子でコンビニに現れた。健一がいつものように声をかけようとした、その時。

「……あの……」

陽子さんが、ぽつりと呟いた。

「私、昔、戦争に行ってました」

健一は耳を疑った。「え? 戦争……っすか?」

陽子さんは、訥々と語り始めた。彼女は、かつて遠い国で、医療従事者として従軍していたこと。そこでの過酷な体験、失った仲間たち、そして、帰らぬ人となった恋人のこと。眠れない夜は、あの頃の悪夢にうなされていたのだと。寝室で眠ることは、あの地獄を追体験することであり、彼女は眠ることを恐れていたのだ。

健一は、陽子さんの語る悲痛な声を聞きながら、自分が今まで彼女に言っていた「元気 sell (売れ)てますかー?」という軽口や、「筋トレでストレス発散」といった無神経な提案が、いかに彼女の抱える深い悲しみやトラウマを、無自覚に刺激していたかを、具体的な場面を思い出しながら痛感し、愕然とした。陽子さんがいつも深夜にコンビニに来ていたのは、眠れないから、そして、健一の明るい声を聞いて、少しでも現実から目を逸らしたかったからなのかもしれない。その推測が、健一の胸を締め付けた。

健一は、それまでの陽気で軽快な自分を封印した。そして、真摯な言葉で陽子さんに語りかけた。

「陽子さん……俺、何も分かってませんでした。でも、もし、もし俺が、陽子さんの寝室の隣で、朝までずっと、一番安眠できる、一番あったかい、最高に美味しいコーヒーを淹れ続けることができたなら……俺の声が、俺の存在が、陽子さんを悪夢から引き戻す『錨』になれたなら……少しは、悪夢から遠ざかれるでしょうか?」

陽子さんは、健一の言葉に、初めて涙を流した。それは、悲しみからではなく、長い間失われていた、温かい人間との繋がりを感じた涙だった。

健一は、陽子さんのために、毎晩、彼女が眠りにつくまで、アパートの窓の外で、静かにコーヒーを淹れ続けた。そのコーヒーの湯気は、まるで彼女を優しく包み込む毛布のようだった。

そして、ある朝、陽子さんはいつものようにコンビニに現れる。その顔には、微かながらも、穏やかな光が灯っていた。彼女は、健一に「ありがとう」と、小さく、しかしはっきりと微笑みかけた。

健一は、胸がいっぱいになり、思わず涙ぐみながら「へへっ、まいどありー!今日も、一日、頑張りましょうぜ!」と、いつもの調子で、しかし、その声は、以前のような空元気ではなく、静かな決意と、陽子さんへの深い慈しみに満ちていた。

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