湯けむりの底

都会の喧騒と、失ったものへの悲しみから逃れるため、佐藤は人里離れた山奥の温泉旅館にチェックインした。鄙びた木造の建物は、まるで長い年月をここで静かに過ごしてきたかのように、板の隙間から湿った風を吸い込み、古びた匂いを吐き出している。窓の外には、轟音を立てて流れ落ちる滝が見えた。その水しぶきが、鈍色の空に虹を描き、またすぐに消える。冷たい風が、廊下を吹き抜ける音が、まるで誰かが囁いているかのように、不気味に響いた。

案内された部屋の畳は、ところどころ擦り切れ、その下から微かにカビ臭いような、それでいて生温かい匂いが鼻をついた。夜、横になった布団は、体の熱を吸い込み、ねっとりとした感触を残す。眠りにつこうとすると、壁の向こうから、誰かがすすり泣くような、あるいは何か重いものを引きずるような音が聞こえてくる。それは、佐藤が過去に失った、もう二度と戻らない温かいぬくもりへの、静かな、しかし執拗な悲鳴のようだった。女将に尋ねても、「ああ、山の音でしょう。この辺りは、夜になると色々な音がしますから」と、穏やかな微笑みをたたえたまま、取り合わない。滝の音が、次第に人の言葉のように、あるいは誰かの囁きのように、耳にこびりつき始めた。

翌日、露天風呂に入った。湯気は濃密で、湯けむりの向こうに、ぼんやりとした人影のようなものが一瞬、揺らめいた気がした。気のせいだろうか。湯の表面に、油のようなものが浮いている。鉄錆びのような、それでいてどこか甘ったるい匂いがした。滝壺の近くを散歩すると、地面から妙な湿り気と、先ほどの鉄錆びのような匂いが、むわりと立ち上った。旅館に戻り、埃っぽい談話室で古いアルバムを手に取った。そこには、昔の宿泊客の写真があるはずだった。しかし、どのページも、インクが滲んだような、黒ずんだ染みがあるだけで、人の顔はどこにも見えない。女将は、その染みについて、「昔の温泉の成分が、こうして残ってしまったのですよ」と静かに言った。その説明は、佐藤の失われた記憶の断片を、鈍く、しかし確かに呼び覚ました。

この旅館には、何か隠された秘密があるのではないか。佐藤は、その疑念に囚われ始めた。女将が時折口にする「この土地の恵み」や「訪れる者への奉仕」という言葉が、彼の心の奥底に沈む、あの失ったものへの悲しみと、不気味に共鳴するのだ。「奉仕」とは、一体何を意味するのだろうか。滝の轟音の中に、時折、誰かの断末魔のような叫び声が混じるようになった。それは、まるでこの山全体が、悲鳴を上げているかのようだった。彼は、この旅館の地下にあるという、かつて使われていたという湯治場へと、導かれるように向かうことを決意した。

地下の湯治場は、湿気とカビで覆われ、異様な熱気を放っていた。壁には、黒ずんだ水滴が、まるで涙のように筋を描いている。浴槽の底には、濁った湯と共に、黒い泥のようなものが沈殿している。それは、まるで生き物のように、ゆっくりと、しかし確かに蠢いていた。湯気は一層濃密になり、その中に、無数の、こちらを見つめる「目」のようなものが、ぼんやりと浮かび上がった。女将の声が、どこからともなく響く。「さあ、あなたも、この土地の真実を、その身で受け入れる時です。」

佐藤は、喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げ、旅館を飛び出した。森の中を、必死に走る。しかし、どれだけ走っても、開けた場所に出ることはない。木々は、まるで迷路のように、彼を取り囲み、道を塞ぐ。遠くから、滝の轟音と、女将の、静かで、しかし耳にこびりつくような笑い声が、追いかけてくる。森の木々が、まるで旅館の壁のように、歪んで見え始めた。現実と非現実の境界が、曖昧に溶けていく。彼は、この山から、決して逃れられないのだと悟った。やがて、彼の足元も、地面から立ち上る生温かい湯気によって、ぼんやりと霞み始めた。滝の音は、もはや彼の鼓膜を直接震わせる、耳障りな、しかしどこか懐かしい呻き声となっていた。彼もまた、この温泉の「恵み」の一部となるのだろうか。湯けむりの底で、静かに、ゆっくりと、溶けていくように。

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