廻る観覧車、砕ける約束
金曜日の夜。退屈な一週間を終えた佐々木健太は、妻の恵美を連れて、結婚記念日に約束していた遊園地へと向かった。しかし、到着したのは閉園間際。錆びついた看板は、もはや客を誘う力もなく、ただ虚しく風に揺れている。 「人生とは、この限られた時間の中で、いかに『自分だけ』の幸福を見出すか、という壮大な実験なんだよ」 健太は得意げにそう語った。その言葉は、彼の冴えない顔に不釣り合いなほど、自信に満ちていた。恵美は、そんな夫の言葉を鼻で笑うかのように、どんよりとした空を見上げた。彼女の瞳には、夫の退屈な哲学話に付き合うことへの諦めと、わずかな苛立ちが混じっていた。 「せっかくだから、あれに乗ろう」 健太が指差したのは、遊園地で唯一、まだゆっくりと回転している観覧車だった。営業終了間際にもかかわらず、それはまるで、健太の虚栄心に応えるかのように、夜空へと伸びていく。 「ええ…もう閉まるのに」 恵美は乗り気ではなかったが、健太のしつこさに折れるしかなかった。二人は古びたゴンドラに乗り込んだ。観覧車は軋むような音を立てながら、ゆっくりと上昇していく。眼下には、まばらなネオンが点滅する遊園地の夜景が広がっていた。しかし、それは決してロマンチックな光景ではなかった。ただ、冷たい空気と、寂寥感だけが漂っていた。 「この瞬間こそ、人生の哲学が詰まっているんだ。恵美、君はどう思う?」 健太は、まるで偉大な発見をしたかのように、興奮した様子で語りかけた。恵美は、窓の外の暗闇に視線を向けたまま、淡々と答えた。 「ただ寒いだけよ。早く終わらせてちょうだい」 観覧車が頂上に達した時、健太は突然、ぽつりと呟いた。 「このまま、ずっとここにいたいな」 恵美は、また始まった、という顔で夫を見た。彼女の経験上、健太の「人生とは」といった壮大な話は、しばしば現実逃避の始まりだった。 「また始まった。あなたの現実逃避癖は、観覧車に乗ったくらいじゃ治らないわよ」 冷ややかに嘲笑う恵美の言葉に、健太は構わず続けた。 「僕たちは、この退屈な日常から逃げ出し、永遠にこの観覧車の中で、二人だけの哲学を語り合えばいいんだ。そうすれば、この虚無感も…」 健太の言葉は、次第に熱を帯びていく。しかし、その内容は、恵美の耳にはただの狂人の戯言としか響かなかった。彼女は、夫の異常さに、かすかな恐怖を感じ始めていた。 「君も、そう思っているんだろう?このまま、この退屈な現実から逃げ出して…」 健太は、恵美の手を掴もうと身を乗り出した。しかし、恵美は素早くその手を振り払った。彼女の表情は、もはや呆れを通り越し、冷酷なものへと変わっていた。 「逃げたいのは、あなたみたいな現実から目を背ける馬鹿だけよ。私は、さっさと家に帰って、明日の朝食の準備をしたいだけ。あなたみたいな、都合の良い夢ばかり見てる幼稚な男に付き合ってるほど、私は暇じゃないの」 恵美の言葉は、健太の胸に鋭く突き刺さった。彼の顔から、血の気が引いていく。彼が信じていた「人生の哲学」も、「二人だけの世界」も、妻にとってはただの滑稽な妄想に過ぎなかったのだ。 観覧車は、ゆっくりと下降を始めた。頂上で健太が抱いていた「永遠の観覧車」という甘い夢は、妻の現実的な拒絶によって、あっけなく粉々に砕け散った。地上に降り立つと、一人の遊園地の管理人が、無表情で彼らを待ち構えていた。 「閉園です。これにて終了」 事務的なその一言が、健太の最後の希望を打ち砕いた。彼は、恵美の冷たい言葉と、虚しく回転を続ける観覧車を交互に見つめた。理解できない現実に打ちのめされ、ただ立ち尽くすしかなかった。 恵美は、健太の惨めな姿に一瞥もくれず、一人で出口へと歩き出した。観覧車が止まる直前、健太が、すがりつくような目で彼女の背中に手を伸ばした。しかし、その手は、恵美に素早く払いのけられた。その直後、観覧車は、彼らの約束も、健太の虚しい哲学も、何もかも無かったかのように、静かに回転を止めた。冷たい夜風だけが、がらんとした遊園地を吹き抜けていった。