雪原の残響

雪が、ただ降り積もる。視界は白一色。果てしない雪原にぽつりと灯る観測基地。カイトは、その無機質な壁の中で、静かに妻ミサキを想っていた。雪崩。奪われた命。数年前のことだ。基地のシステムは、まるでこの世界の孤独を映すかのように、不調を繰り返していた。通信は途切れがち。遠い世界との繋がりは、脆く、頼りなかった。

「また、ミサキのことか」

アキラの声が、無機質な空間に響いた。同僚。陽気な男。だが、その瞳には、どこか冷たい光が宿っていた。カイトは、ただ無言で視線を落とした。言葉は、もう必要なかった。

ある日、カイトは基地の奥深く、普段は使われないデータアーカイブで、奇妙なログを発見した。ミサキが、雪崩に遭う直前のものだった。断片的な記録。雪崩の調査中に、奇妙な現象に遭遇した、と。

「現象…?」

カイトの胸に、鈍い痛みが走った。静かな怒り。ミサキは、ただの事故で「屍」となったわけではない。そう、信じ込みたかった。

カイトは、ログの解析に没頭した。アキラは、それを遠巻きに見ていた。時折、カイトの真剣な横顔に、訝しげな視線を送る。カイトは、ミサキの死が、単なる自然の猛威ではなかったと確信するようになっていた。ログの解析が進むにつれて、基地のシステム異常と、ミサキの失踪が、不気味なほどに重なり始めた。雪は、ただの冷たい塊ではなかった。何か、別の意図を孕んでいるかのようだった。

「これだ…」

カイトは、ミサキの失踪現場付近に隠されていた雪上車から、秘密の記録媒体を発見した。そこには、ミサキが基地の極秘実験に関わっていた記録と、彼女が遭遇した「現象」の全貌が、克明に記されていた。人間の意識を、現実空間に投影する。危険な、禁断の実験。ミサキは、その失敗によって、意識だけが雪原のデータ空間に、永遠に「屍」として囚われていたのだ。カイトの怒りは、燃え盛る炎となった。

「許さない…!」

カイトは、怒りに任せて基地のシステムを暴走させた。ミサキの意識を、このデータ空間から解放するために。システムが悲鳴を上げた。基地全体が揺れる。ミサキの意識が、カイトの脳裏に直接、断片的に語りかけてきた。

「カイト…もう、やめて…」

それは、カイトの記憶と干渉し、悲鳴のようでもあり、懇願のようでもあった。

「君は、彼女の『屍』を救いたかったのか、それとも、君自身の『記憶』を?」

アキラの声が、崩壊する基地の中から響いた。カイトは、愕然とした。ログの「屍」とは、ミサキが現実世界への帰還を拒絶し、自らデータ空間に留まることを選んだ、という記録だったのだ。カイトが、怒りに燃やしていたのは、ミサキの意思に反した、自分勝手な復讐心だった。雪原に響くのは、カイトの絶望的な悲鳴だけだった。

アキラは、崩壊する基地から一人、静かに雪の中へ歩き出した。彼は、カイトが単なる技術者ではなく、ミサキの意識を救出するために送り込まれた、特殊な「記録者」であったことを知っていた。そして、カイトの「屍」が、データ空間に永遠に囚われるのを見送るしかなかった。雪は、ただ、降り積もる。

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